神隠しの思惑
いよいよ悪党の本領発揮です。
(六)
「互いの事情にゃあ、首を突っ込まんが約定だ」
「おれは、鈴屋の遊女に頼まれて、駒次郎を迎えにきただけ。欠落ちの約束があったらしい」
板間に転がされた庄助を、誠二郎は手慣れた様で縛り上げる。庄助の前では安五郎が、手燭を頼りに、囲炉裏の灰を覗き込んでいる。
「あの腑抜け野郎なら、暇を貰ったぜ。国に帰ったんじゃないか?」
いけしゃあしゃあと、のたまう安五郎に、「そうか。遊女は当てが外れたわけやな」
誠二郎も素っ気ない。駒次郎に手を合わせた、真摯な様は微塵もない。
「あんたも物好きだな」
灰を引っかき回す手も止めん、安五郎は気易げだ。だが、「夜逃げは噂になってるだろう?」問い質すような口調には鋭さが含まれ、こちらに向ける背に隙はない。
「銭を貰うとるんや。女は、首を長くして駒次郎を待っとる。御師も商人や、夜逃げもするやろけど、使用人を連れた夜逃げはあまり聞かん。行く当てのない駒次郎はまだ、邸におると女が言うんでね」
誠二郎の口調には淀みがない。
「一度役人が踏み込んだぞ?」
安五郎は容赦なく、突っ込んだ。
「らしいな。けど、御師邸は広い。小心者の駒次郎はきっと、世間の目を恐れて、屋敷のどこかに縮こまっとるはずやと、言うんや」
「ありそうな話だな。そう。駒次郎は肝っ玉の小さい男だ。それがよく、遊女と欠落ちなんて思いついたなぁ。やつにそんな度胸があるとは、思えんが?」
手を止めた安五郎が、振り向いた。口を曲げた様は呆れているようだが、目は笑っていない。
「遊女の涙にほだされたんちゃうか。そもそも、跡取りの座から放り出されて、泣き寝入りした男や。同病相哀れむ。不幸者同士、手に手を取ってと、こう……。聞けば殿原の仕事はきついという。逃げ出したい思いばかりが、先走ったんやないかね」
ぐいっ、と手首を締め上げられ、庄助は顔を顰めた。安五郎が満足そうに、にたりと、笑う。
「いるな、そういう奴」くるり、と背を向けた安五郎は、再び灰を掻き回し始めた。
「わかったろう?」丁寧に縛り上げた庄助を、ひらりと、飛び越え、誠二郎は安五郎の隣に腰を下ろした。
「外れだったな」気がなさそうに吐き捨てた、安五郎が灰に手を突っ込んだ。
「探し物か」覗き込んだ誠二郎を、安五郎が窘める。
「互いの事情に――」
「首は突っ込まん。だがおれは、あんたに用がある。あんたの用事が済まんと、おれも屋敷に足止めや。目付衆が彷徨いとる。明かりが漏れれば踏み込んで来る。おれはあんたと違って、逃げ足が速くないんでね、捕まれば面倒や。騒ぎは起こすなと言われとる」
「あんたとの仕事は、もう終わったぜ。儂に付き合う義理はない。とっとと、行けばいいさ、駒次郎は国に帰った。探しても無駄だ」
くくく、と笑う安五郎に、「おれはあんたに、用がある」誠二郎が繰り返して、「儂はあんたに、用はない」安五郎が突っぱねた。
「こっちの事情に首を突っ込んだあんたは、本来始末するところだが、あんたとは問題を起こすなと、昭暝に言われてる」安五郎の腕が、灰の中に沈んでいく。
「あんたの事情を勝手に語ったのは、小童や。おれが聞き出したわけやない」誠二郎も、譲らない。
(まったく。簡単に口車に乗りやがって)
庄助の胸の中で、素間がきんきんと捲し立てた。
「どうかな?」
もはや、肩まで灰に沈んだ、安五郎が吐き捨てる。「おっ」呟いた安五郎が、腕を引き上げた。
「あんたが気にするその小童が、餓鬼殺しの下手人を追っていたとは、承知だろう? あんたが、駒次郎を探しに屋敷にやってきた話は、信じてやろう。だが何であんたは、小童を誘い入れた。あんたの条件からは、離れすぎてるぜ。七つまでの童が、あんたの神隠しの条件だ」
安五郎の言葉が、庄助の脳天を打った。
「そやな。ちぃと薹が立ちすぎとる」
誠二郎の言葉には、むっとする。
「小童に会うたのは、偶然や。忍び込もうとする屋敷を、見張られてはかなわん。盗人の真似は不慣れなんや、背後から付け狙われては、探し物もままならん。ならばいっそ相方にと、あんたの名を拝借しただけや。まさか、あんたがおるとは思わんかったんでね」
しれっ、と言い放つ誠二郎はやはり、悪党だ。
「おれはこの小童に用はないが、あんたにはありそうやから、捕らえたったんや。あんたはおれの用に付き合う義理ができたんとちゃうか? あんたとはもう、相方やない。貸し借りは、なしやで」
はなから示し合わせた罠では、ないらしい。
「あんたは儂に小童を売ると。なるほど、菰野の先代領主が頼みとする男は、ただの山人ではないようだ」
にやっ、と笑った安五郎に、誠二郎の肩が強ばった。
「文句は言うな、あんたが先に、儂の事情を突きつけたんだからな。儂は知らん相手とは組まんことにしてる。用心深くなきゃあ、この世界では生きていけんのだ」
安五郎は灰を被った物を、手の平で転がした。安五郎の悪党にも、大がつくらしい。
「一万二千石の幼い領主の守り役のあんたは、気苦労が多かろう。先代から預かった、嫡男に早死にされてはお家断絶。そもそも、早死の家系に、家臣どもは奸計に走りがちだ。家が潰れては、一大事」
安五郎は懐を探って、手拭いを引っ張り出した。丁寧に灰を拭う安五郎を、険を帯びた誠二郎の目が見据えている。
「何度も死の際に立った、幼い領主。何とか丈夫に育って頂こうと、健気に仕えるもんもいれば、先の安寧のため、領主の交代を望むもんもいる。病弱な童が旅先で容態が悪くなるのは、ままある話。刺客は、童が警戒しない女がいい。目星を付けた間の山のきれいどころが、男で残念だったな」
件の晩の誠二郎と天狗のやりとりに、合点がいった。なるほど、人違いだ。
「あんたは用なしの小童を、体よく儂に押しつけるつもりだったかな。色々と嗅ぎ回る小童は、あんたにとって目障りだ。領主様の到着を前に、あんたの神隠しが発覚すれば面倒だ。そこの小童は間の山の人気者、御師らとも付き合いがある。三方会合が動き出せば、あんたの計画は水の泡だな。病弱な領主様に、無駄足を踏ませてはお体に障る」
ふぅ、と手の中の品に息を吹きかけた安五郎は、「これこれ」手燭にかざした品に、目を細めた。庄助の心ノ臓が躍り上がった。
安五郎が丁寧に拭き上げていく欠けた櫛。美月の愛用の櫛は、素間の贈り物だ。欠けた櫛の代わりにと、美月の客が櫛を贈ってよこした話は、美月の神隠しを裏付けるものとなった。
(姫様が、この屋敷に?)
もはや居ても立ってもおれん庄助は、むん、と縛られた手に力を込め、はらり、と解けた縄に拍子抜けする。
「三日後や」
呟いた誠二郎に、安五郎が目を向けた。庄助は、慌てて緩んだ縄を引き寄せる。
「若君は三日後に到着される。大事な身代わりや、不備があっては、一大事。おれは童らの様子を覗いに――」
「はざま屋に出向いたか」
目を剥いた庄助に、安五郎が、くつくつと笑った。
「ところが隠し部屋は、もぬけの空や。昭暝が連れていったと、おつたは言う。おれは何も聞いちゃいない」
誠二郎は剣呑な目付きで、安五郎を睨んだ。
「おっと、儂は知らんぞ、あんたとの相方仕事は終わったんだ。昭暝に聞けばいいだろ。やつは――」
「金剛證寺には、おる。やが常にすれ違いや。やつはおれを避けておる。前金は払っとるんや、童らを失えば大損や。北ノ方様にも、申し訳が立たん」
押さえた怒りに火が付いたか、誠二郎が声を荒げた。
「なるほど。それで小童か」
「あんたはまだやつと組んどる。あんたの呼び出しには、応じるはずや」
ふーん。と、安五郎が腕を組んだ。僅かに口の端を上げた安五郎には、何かありそうだ。
「いいだろう。ちょうどこれからやつと会う。ついてこい」
ぽい、と、手燭を投げた安五郎に、庄助が目を剥いた。踵を返した安五郎に、誠二郎が戸惑いの色を見せる。
「どうした、あんたも焼け死にたいか」
笑いを含んだ安五郎の声に、「いや」低く返した誠二郎が、庄助に小さく頷いて、背を向けた。
(七)
板間の端に積み上げられた座布団が、安五郎の投げた手燭に炎を上げた。
慌てた庄助の足下がもたつき、均衡を崩した庄助を、燃え盛る炎が出迎えた。もはやこれまでと、覚悟を決めた庄助に、
「勝手をしたら困りますと。わては言うたはずですが? 何を思うて、燃えてますんや」と、呑気な愚痴に、酸い臭い。
地獄に仏ならぬ、火事場に猫の玉助は、庄助の頭で小便をこく。
(そんなんで、火ぃが消えるかっ)
身を包む炎にもだえる庄助の頭上で、玉助が「ふぅ。間に合った」と、満足げな声を立てた。
(人の頭で粗相するもんが、間に合うも何もあるかっ)
たんっ、と、庄助から飛び下りた玉助は、童の顔をした斑猫。
「どっちかにしろっ!」猿轡を投げ捨てた庄助に、
「消えましたやん」にまっ、と笑う猫は、気持ち悪い。
「わてはまだ新米です。まだら技と、変化の両方は無理ですんや」
だったら猫にしとけと思いつつ、火を消すまだら技があれば、火事など屁の河童。
「早う消せ」と叫ぶ庄助に、「火事は消せまへんな」玉助はさっさと、尻尾を巻いた。
「けど、火ぃは移りませんよって」猫毛の玉助は、燃え上がる炎をものともせずに進んでいく。頷いた庄助が後を追って、じり、と音を立てた衣に悲鳴を上げた。
「静かに。火消し衆が集まってます」童顔の猫が眉間に皺を寄せる。
「熱いやん、燃えてるやん」庄助の訴えに、肩を竦める猫には腹が立つ。
「しゃあない。まだらの極意を使いましょう。離れんといて下さい」
脱兎のごとく走り出した玉助に、一面を埋め尽くした炎が道を開けた。猫の小便、恐るべし。
(やるやん、玉助)
感心した庄助の視界からすっ、と玉助が消えた。(むむ)立ち止まった庄助の背で、「庄助さん、覚悟っ」猫足が腰を蹴る。
ぎゃん、と叫んで腰が砕けた。あわあわと振り回した庄助の腕を、何かが掴んだ。
「平気かぇ?」傾いた体を引き上げる。
「おおきに」顔を上げた庄助は、「いっ」背も腰も凍り付いた。
「こらあかん」慌てた玉助が、再び庄助の腰を蹴った。
「ひゃぁ~」吹っ飛んだ庄助の体が、ばきばきと枝を折る。じんじんと痛む腰を支えた庄助は、草の上に転がった。
「やぁ。無事に着きましたわ」きれいな着地を披露した玉助が、童顔でにこっ、と笑う。
「無事やないわっ」叫んだ庄助の口に万金丹。呑み込んだ万金丹は、素間か野間か。「腰痛はすぐ引きます」玉助の言葉に、野間と知る。庄助はふぅ、と息を吐いた。
「あれは何や?」
「たぶん間の幽鬼です。わても間道は初めてですんや」童は、無手法だ。
耳まで裂けた口から、覗いた赤茶けた歯は、今にも庄助に食らいつきそうだった。ぞくっ、と身震いして、小便臭さに気が滅入る。ちびってはおらん、これは、猫の小便やと、自身に言い聞かせる。
「まだらもんには、手ぇ出せへんて聞いとります。けど、庄助さんは半人前ですよって。そやから覚悟と」
いい加減な新米猫に、半人前と言われる筋合いはない。
「わては、お前と遊んどる暇はないんや」
人攫いの情報は掴んでる、半人前は取り消せと、玉助を睨み、「だてに捕まっとったわけでもないんですな」生意気な新米には、とって置きの情報を突きつける。
「誠二郎はな、拝田の神隠しの犯人なんやぞっ」
どうだと胸を張る庄助に、「そらそうですけど」当然のように猫は返す。
「誠二郎さんは、悪党やありません」人攫いを悪党と言わず、何と言う。
「庄助さんを助けましたやん」
確かに。脱出が間に合ったのは、緩い縛めのおかげ。顔だけ童の玉助に、縛めを解く術はない。
「けど。童ばかりか、やつは姫様まで、拐かしたとんでもない下衆野郎やっ」
猫に負けじと息巻く庄助に、
「拐かしはそもそも、下衆野郎の十八番です。けど、誠二郎さんには、事情がありますんや。それに美月さんは、自分から乗り込んでいかはったんです」
生意気な猫は、正論と理不尽を同時に吐く。
「拐かしに、事情もへったくれもあるかっ。古市の女やあるまいし、姫様が悪党に殴り込みなんか、かけるはずなかろ。上品でしとやかな、拝田の巫女様なんやぞっ」唾を飛ばす庄助に、
「あかん。ほんまに誑かされとるわ」玉助が息を吐いた。
「誑かされとんのは、お前のほうや。口八丁手八丁で女子供を誑かし、人の事情に首を突っ込む誠二郎には……」
「庄助さん、ぺらぺらと、いらんことしゃべりましたなぁ」
口八丁な猫は、痛いところを突く。
「あいつが悪人や、いう証拠やないか」「わてには庄助さんがただ、不甲斐ないだけに見えました」口の減らん猫だ。
「お前はどっちの味方なんやっ」畳み込めば、「そら、わては庄助さんの守りですよって……」急に、口を濁す猫は不愉快だ。
いずれにしろ、美月を取り戻すのが先決だと、庄助は猫に言い聞かせる。
悪党は三人で、美月の奪い合いをしている。誠二郎の手から、まんまと美月を奪った安五郎だが、天狗に美月を取られて一計を案じた。安五郎は、二人を相打ちにさせるつもりだと、自らの憶測を捲し立てた。
「なるほど。庄助さんは漁夫の利を狙う安五郎から、お宝を奪おうって腹ですね。なかなか、こすっからい」猫は、口の利き方を知らん。
「取り戻すんやっ。横取りやないわっ」
「そら、物のいいようで。若松様やったらもっと、正々堂々といきなはれ」
ぴしゃり、と言い放つ猫に、かちん、ときた。
「もうええわ。姫様も童も、わてが取り戻すっ」
すっくと立ち上がった庄助の脛を、玉助が蹴った。息が詰まった庄助は、脛を抱えてもんどり打つ。何だか段々、扱いが雑になっている。
「わてを誰や、思うてはりますんや。若旦那が見込んだ、まだらの玉助でっせ」
猫はでかい口を叩く。
「童は無事です。美月さんが、片をつけはりました。まんまと悪党を手玉に取り、童らを取り戻した手際は、見事でした。手柄を横取りされたんは悔しいですが」
庄助が無駄骨を折る間、玉助は、拝田の神隠しの真相を掴んでいたらしい。
「嘘やん」あんぐりと開いた庄助の顎を、「ほんまです」猫は、小便臭い前足で押し上げる。
お前は伊勢の若松様なんだよ――。
誰よりも、庄助に期待を掛けた素間への餞にと、玉助は、庄助の手柄を望んだに違いない。
(立派な守り役やないか……)
「すまん」項垂れた庄助に、
「ま、横槍のつもりでしょうが。庄助さんばかりが、若旦那の気を引くんが気に食わんのです」玉助は、容赦ないひと言を突きつけた。
(姫様はやはり、素間を……)
気落ちはするが、素間はもういない。想い人を亡くした美月には、支える者が必要だ。
(素間には、大人しく死んどってもろて、と)
むくむくと、希望が湧いてくる。前途のある庄助は、(野郎より女やぞ)現実的な思考を優先する。
「姫様が無事なら……いや、拝田の危機が去ったなら、そんでええ。手柄も名誉も望まんて。わては、本物の若松様になるんやからな。玉助、わては必ずや、素間の期待に応えてみせる」
美月が庄助に、目を向けてくれさえすれば。若松様にでも、何にでもなれる気がする。希望の見えた庄助の気分は上がる。
「よう言われました。わても、庄助さんを若旦那から、預かった甲斐があります」
話はついた。ならばさっさと、美月の元へ。できれば間道を通らずにと、胸の内で前置きし、「村に帰るぞ」口にした庄助の言葉を、
「けど、美月さんに、ひけをとってはあきまへん」玉助の言葉が、かき消した。玉助のくせに、杉家の味方か。
「今さら何や。村の大事が一番やぞ」
「そない、小さな話やありまへん。美月さんを、増長させてはあかんのです」
猫は、杉家と玉家の確執を舐めている。
「姫様は、拝田の巫女やぞ、手柄をとって、増長するような立場やない」
「誑かされてますわ、庄助さん。ええですか、美月さんは庄助さんに、若松様になられては、不都合なんです」
(わてが若松様になったら、姫様はわてを好いてくれるわっ)
根拠のない自信は口にはできず、庄助は、玉助を睨んだ。
「しゃあない。若旦那には、口止めされとりましたが」
思わせ振りに手招く玉助に、庄助は(なんや)と、顔を近づけた。
「ようお聞きなさい、美月さんは――」
ぴくり、と玉助の体が跳ね上がった。すかさず飛び退った庄助は、近づく足音に、息を呑んだ。
(八)
「猫……か」
ぐったりと横たわる、斑猫を足蹴にした男は、油断なく辺りに目を配った。
大木に身を隠した庄助は、ぴたりと、動きを止めた男に、息を潜めた。
(玉助は――)斑の塊に目を転じ、
ちっ――。
小さな音に身を引いた。鬢を伝った汗に手を遣って、べたりと張り付いたものに、目を見張る。小さく震える蛾を射貫いた針には、見覚えがある。(天狗か)
僅かな月明かりのみの辺りは暗い。夜目が利くとは言え、庄助の目に、男の顔は判然とはしない。いつぞやのように、天狗面を見れば一目瞭然だが、さすがに、闇の中で面を着ける用意はないようだ。
修験者を偽って、金剛證寺に居候する天狗男がいるここは、朝熊山だろう。玉助は悪戯に、間道を通ったわけでもないらしい。
(見つかったな)
串刺しの蛾を払い落とし、庄助は手の平を木肌で拭った。天狗の針には、毒がある。付け髷弥平の死は、天狗の毒が原因だ。ならば小さな玉助は――。
むくむくと怒りが込み上げた。最後の思い出が、小便と口八丁と暴力であっても、玉助は、立派な守りだった。
何とか一矢だけでも報いたいと、庄助は身構えた。相手は悪党を操る玄人だ、たかが芸人が倒せる相手じゃない。常ならば庄助に味方する闇も、相手が天狗では分が悪い。
(姫様とは、縁がなかったんかいな)胸で呟いた庄助は、大木を飛び出し、地を蹴った。月光を反射した金属が、星のように瞬く。飛びついた枝に勢いを付け、くるり、と身を反転させて足を着く。
一、二、と数えて枝を蹴れば、今いた枝に、殺気が集まる気配を感じた。飛びついた幹を駆け上がり、魂消た鳥が飛び立った。揺れる枝に庄助はしがみつく。小便臭い袖を、千切って放れば、草が小さく抗議の声を上げる。闇に大きな殺気が動いた。
すかさず庄助は、腰に手をやった。帯には大小様々な竹串が数本。万が一に備えて、念入りに研いだ代物だ。敵の得物とやりあうには不利だが、至近距離から投げつければ、鋭い鋒が物を言う。
(当たるかどうかは、わからんが)
庄助は一番大ぶりの物を引き抜いた。動く相手を射る稽古は、久しくしていない。相手がただ者でない事実が、庄助の緊張を煽った。敵が、庄助の足下を抜ける一瞬が勝負だ。
囮に気付けば、敵の狙いは、庄助のいる枝に向けられる。殺るか殺られるかの真剣勝負に、庄助の手が滑った。
からん、と、音を立てた竹串が木の枝を滑る。大きな殺気が、立ち止まった。
(あかん)
逃げるべきだが、撓んだ枝は不安定。腹ばいにしがみついた体勢を、整える間に隙がでる。大きな殺気が、庄助を見上げた。
観念した庄助の首根っこを、何者かが掴んだ。庄助の体が浮き上がる。
「やれやれ世話がかかる」庄助を抱え直した声に、胸が詰まった。
「素間っ!」しがみついた衣の香りが懐かしい。庄助の目に、涙が溢れた。
「おや、そんなに怖かったかい? まったくお前は、意気地無しだねぇ」
憎まれ口も今は嬉しい。素間がいる、素間がいる素間が……。庄助は童のように、素間の胸に顔を埋めて泣いた。
「こらまた、珍しいこともあったもんだ。お前、やつの毒喰らったんじゃあないだろうね」
庄助の涙がはた、と止まった。
「素間、わてはまだらに行くんか?」顔を上げた庄助に、素間はきょとんと目を剥いた。「何で?」
「だって、わては死んだんやろ?」「お前本当に、大丈夫かぇ?」
眉を顰めた素間の首っ玉に、庄助はしがみついた。
「お前と一緒やったら、どこへでも行くで。置いてかれるんは、もうたくさんや」
「あたしがいなくて、そんなに淋しかったかい。可愛いねぇ」
「黙って逝くなんて、あんまりや」
「仕方ないだろう。急いでたんだ、弥平にせっつかれてね」
素間に抱えられた庄助は、宙を滑るように、木々の間を抜けていく。時折、ひょいと枝を蹴りあげ、勢いをつける素間は、まるで天狗のようだ。
「この景色も見納めかなぁ」「おかしなことを言う子だね、いつだって見られるさ」
短い人生だった。母は泣くだろうか。心底悩みの種だった母だが、別れとなると後ろ髪引かれる思いだ。
「母ちゃん……」「あぁ、お美衣さんとはまだ、会ってないよ、戻ったばかりだから」
大年増を通り越した母を、庄助の出自を知る、芝居好きは支えてくれるだろうか。
「松右衛門さん……」
「拝田が物忌みで、大騒ぎらしいじゃないか。まったく、美月の身勝手にも困ったもんだ」
(そや、姫様――)やはり、美月とは縁がなかったかと、肩を落とし、
「庄助、何だかおかしい……」
素間の言葉に、流れる景色が止まった。体がゆらゆらと揺れる。
「力丸め、巻きすぎちまったか。あれほど気をつけろと、言ったのに」
ぎり、と口を噛む素間のこめかみに青筋が立つ。死んでも色白の素間の顔が、僅かに青ざめた。
「力丸がどうしたって?」
死して後、素間が気にするほど、力丸と親しかったとは知らずいた。
「糸を巻かせてるんだよ。あれは間の山一の力持ちだからね。けどおつむはあんまりだ。だからさ、ちゃんと印もつけてやったんだが。鯨の髯は繊細なんだ、加えてこの大仕掛けには、大層な年月と費用をかけたのさ、いつかお前と遊ぼうと思ってね。まさか、お前の命を救う羽目となるとは、思わなんだが……」
常に、理解に苦しむ素間の話が、頭を巡る。糸に、力持ちに、鯨の髯。大仕掛けに、費用に……
(遊ぼうと思ってだとぉ?)
庄助の十数年の経験が、素間の魂胆を理解した。
「素間っ、てめぇ死んだんやなかったんかっ」
抱えられたまま、胸倉を掴んで体が大きく揺れる。
「何の話だい、それより、暴れるんじゃない」庄助を諫める様に、常の勢いはない。
「玉助がやな、素間は弥平と旅立ったと」
「そうだよっ、あたしゃ牛谷の童を取り戻しに行ったんだ。ほら吹き法師が、八瀨の村に禍をもたらすと、教えにね。牛谷の神隠しを企んだのは昭暝だよっ、その上、お前の命まで狙いやがって」
旅立ち違いだったらしい。
「お前、あたしを死人だと思ってたのかい。まったくお前は、間抜けな役立たずだよっ。守りまでつけてやったのに、美月に振り回された挙げ句に、伊賀者に後れを取るとは……」
拳を振り上げた素間の手が止まる。「間に合って良かったよ」
わなわなと震えた手が、力無く下がった。「ほんと。大馬鹿者だ」
呟いた素間の紅い口もとが、ぐにゃりと歪む。庄助の頬に、熱い雫が零れ落ちた。
「生きてるんだな」庄助の震える声を、「当たり前だ、そう簡単に死んでたまるか」
腹立ちも何も吹っ飛んだ。素間が生きて傍に居る。
「やったら。天狗に仕返しせないかん」「誠二郎は?」
「安五郎と一緒や。天狗の鼻をへし折るつもりやで。安五郎は何ぞ企んどる。天狗と誠二郎をけしかけて一人、利を得るつもりやと思うたが、姫様と童は――」
既に難は逃れている、庄助は美月に誑かされていると言い残した、玉助の真意は語られぬままだ。
「美月のことだ、ぬかりはないだろう。気の毒なのは誠二郎だね。何とかしてやりたいが――」
いきなり腹の底がすうっ、と空いた。木の枝に叩かれながら、来た道を帰っていく。
「如何せん、仕掛けが切れちまった。庄助、俗世は忘れて、あたしとあの世へと旅立たないか」
常の調子の素間に、庄助の口も緩む。
「まだ死ぬつもりはない。わては、若松様にならないかんのや」
素間がにやり、と笑った。
「弥平、出番だよ」
懐に手を入れた素間が、付髷を取り出した。素間は共に旅立った付髷と、懇意となったらしい。
「おう。行くぜおすず」「あいよ、お前さん」
素間の懐から現れた付髷と付髪が、ねちっこく絡み合う。
ひょい、と素間が投げた付髪が、太い枝に絡みつき、付髷弥平は、庄助の頭に吸い付いた。
(なんで、わてなんや)
大きくのけぞった庄助を、素間がきつく抱きしめる。みしみしと鳴る、髪と背に顔を顰め、庄助は、必死に踏ん張った。
(九)
「ふーん。つまりは誠二郎を殺るつもりだと」
「へぇ。しかとこの耳で聞きました。間違いはありまへん」
死に損ないの素間と不死身の猫。二人は、いつからの付き合いか。
「不覚の事態に、足跡を消そうって寸法です。誠二郎の口から、消えた童の話が出ては不都合。はざま屋のおつたは、昭暝が童を迎えに来たと言っとります。小藩とはいえ、領主様の大事に不始末があっては、黙っておらんですやろ。昭暝は、色々突かれては不都合な身の上です。誠二郎は、国元の追っ手に殺られたとすれば、昭暝の憂いは消えますやろ」
素間の前に背を丸めて、語る斑猫は、目付衆の如く。同心素間は、犬ならぬ猫を飼っている。
「美月の遊び好きにも、困ったもんだ。大悪党の根城が気になったかね」
「それもありそうですが……。屋敷には地下牢があったようです。金屋大夫の倅は病持ちで、全くの闇でしか、震い立たんそうです。許嫁の浜屋のおよねは、昨年の小町番付で、関脇につけた評判の別嬪ですのに。もったいない話です」
親爺じみた口を利く童顔の猫は、見た目より大人なのかもしれん。
「昭暝が伊賀者やって、ほんまなんですか?」庄助の口で、弥平が口を挟んだ。
「昭暝は知念が伴った修験者で、然るべき寺の書状を携えていたと、三八は言う。本山から預かった知念が伴った客人には、住職は何の疑いも持たなかったんだろうね。あの人は、
来る者拒まずのお人だ」
住職は大らかだ。
「ただの修験者に、然るべき寺が書状を出すとは妙だ。もしや、と思って探ってみれば、大当たり。ありゃあ伊賀の郷、新堂家の妾腹だ。婢に生ませた子だよ。ま、よくある話だが」
伊勢でも度々話題となる妾腹の子は、旧家であれば、冷や飯喰らい。小家であれば、小銭でけりをつける厄介者だ。行く末は、遠方に奉公に出されるが倣いだが、時に跡取りが早世して、当主となる場合もある。当主の血筋を重んじるのは、武家の習いらしい。
「そもそも。山賊まがいの荒くれ者が、血が騒ぐままに、領地の攻防戦を繰り広げた結果が生んだ、すっぱ、いわゆる忍びの技。敵の裏をかく戦略を買われ、有力な武士どもに雇い入れられたのが、伊賀、甲賀の荒くれもんだ。世の倣いで銭が入れば村は潤い、蟲毒のごとき生き残りの精鋭が、村を仕切っていたんだろうが」
戦乱の世が終わり、徳川の仕切る世は平穏。将軍に媚びを売る荒くれ共は、従順な番犬になり下がった。すっぱの技を受け継ぐ者はごく僅か。厳しい修行を、誰もが嫌う。
「仕官の口のある嫡男に代わり、すっぱの技を受け継ぐ者は次男三男。だが美味しい仕官口が残る直系の血筋は、身を切るような鍛錬はしたくない。結果――」
伊賀のすっぱの技は、妾腹に受け継がれた。昭暝もその一人だ。
「平穏な世に戦はない。当主は将軍の顔色を窺いながら、将軍家奥向きに目を光らせてれば、家は安泰。それでも伊賀の誇りは、守らにゃあならん。命がけの仕事は、妾腹衆が請け負う寸法さ」
ちょっとだけ、昭暝を気の毒に思う。
「危険任務に就く、妾腹衆の数は当然減る。補充は必然だが、そう都合良く妾腹も生まれない。加えて妾腹衆の存在を知った村人が、娘の奉公を渋りだして、更にその数が減った。銭を積んでも、頑なな態度の村人に無理強いはできん。静かな農村は、将軍家の密偵の隠れ蓑。本拠地が世に知れれば、郷の襲撃は免れん」
戦乱の世には、伊賀の郷全体がすっぱ者だったと聞く。平穏な世に、精鋭の一族を除いた者どもは、隠れ蓑となって名家を支え、仕えてきたに違いない。
「継承者がおらん。八瀨と同じや」庄助の口で、弥平が呟いた。
「美味しい仕事と一族の秘術。二兎を狙っての妾腹だが、それがままならぬとなれば――」
「他所から調達するよりないわけや。まったく。八瀨も伊賀も勝手やないかっ。間の山を何やと思うとる」
付髷を引っぺがしてやろうと、掴んだ庄助の手を、ぞろり、と伸びた髪が押さえた。毛に腹が立つのは初めてだ。
「伊賀者もまた、そもそもが山の民なんだよ。山の民は誇り高い。余所もんを受け付けん。秘術を伝授するには、同じ血を持つ山の民でなくちゃならないのさ」
「わてらは、伊賀もんとちゃうぞ」
「元は同じさ。天に近い山が聖視されるのは、遠い昔からだ。修験道の大元、役小角もまた山人だし、仏教修業の場として、寺も山に建てられる。山は俗世から切り離された霊場なんだ。そこに居をなす者は、神の許しを得た者。山人の誇りはそこにある」
ウズメ様の縁者を長とし、従った拝田村の祖も、山の民だったと、村長は言う。
「わてらの祖は、八瀨の郷を取り巻く山々に棲んだ、山人でありました。そもそも神山として敬われていた比叡山に、最澄上人が延暦寺を開基された折、お手伝いをさせて頂いたと村の由緒書きにおます。わてらが、最澄上人の使役する鬼と言われる由縁です」
弥平が口を挟んだ。
「その昔、支配者のなかった山岳地帯で、山人同士の勢力争いが盛んとなった。山中で繰り広げられる戦いは、様々に技を編みだし、弱者が強者に呑み込まれた結果、強者二派が残った。決着がつかぬ両者は、山ひとつを境界線として伊賀、甲賀に棲み分けたと。和尚の話には、信憑性があるとあたしは思うね。特異な戦法は、ただの賊ごときに編み出せるもんじゃない」
間の山芸人、八瀨の童子、伊賀のすっぱ――。いずれ真似できん、一族が守り続けた独特の技は、一族の結束と誇りによって成り立っている。
「比叡山の雑役も務めていた八瀬は、場合によっちゃあ、間諜の役割りも担ったんじゃないかい?」素間の言葉に、付髷がぴくり、と浮いた。
「お察しの通り。古くは謀反の動きを探り、御前に仇成す者を、屠ったこともあったようです。わてらは常に、鍛錬を欠かしまへんが、その中には剣術も体術も含まれます。御前の内々の外出には、八瀨童子が従いますんや。故に、いっぱしになるんに時がかかります」
(伊賀もんと変わらんやないか)
庄助は目ン玉をひん剥いた。
「庄助、伊賀者の技には、物真似もあるんだよ。軽業は当然、童の頃から仕込まれる。お杉お玉の技は、むしろあっちが十八番だね。驚くなかれ幇間の、人の気を操る話術すら身につける」
にまっと笑う素間に、「何が言いたい」と、庄助は口を尖らせ、「同じ穴の狢ですがな」玉助が、猫の手で童顔を洗った。
「だから、間の山は狙われたわけさ」素間が、小さく肩を竦め、
「一緒にすなっ! わてらは――」噛みついた庄助の口を、弥平が乗っ取った。
「かつて、比叡山に集められた小坊主らに、修業をつけたこともあります。けどあかんでした、技が体に染みこまんのです。そやから法師様の言葉に……」
「昭暝は素質を持つ妾腹衆の調達に、当たってたんだ」
庄助の怒りを無視した、素間にも腹が立つ。
「もうええわっ。百歩譲って山人の血は同じ。中でも優秀な間の山の童を欲しがる、山人の思惑はわかった。けど、誠二郎は何で人攫いに関わった。安五郎は筋金入りの悪党やから、銭で動いたんやろが、菰野の領主が、間の山に何の用や、領地のいざこざを、神域に持ってくんな。間の山は、菰野の殿さんの犬にはならんで!」
「庄助っ」目を剥いた素間には、身構える。
「やるじゃあないか」ひし、と抱きしめられて怖気が走った。
「だてに捕まっとったわけやないみたいです」玉助が、余計な口を挟む。
「真実は本人の口からお聞きよ」素間の言葉に、近づく足音に気付く。腰に手を遣った庄助を、素間が押さえた。
「慌てなさんな、まずは様子見だ」
忍法、木隠れの術――。
印を結んだ素間に、黒髪が、うねうねと全身を覆った。
(十)
「あんた、おれを誑かすつもりか」
「得にならんことはせん性分でね。あんたに借りを返すだけだ。昭暝に会いたいんだろ?」
「やつは、夜更けにこんな場所で何しとる」誠二郎が、立ち止まった。
「疑うのか。儂は何も持っちゃない」くるり、と振り向いた安五郎が、両手を挙げた。庄助は、足下に立った安五郎にひやり、とする。
(びびってんじゃないよ。あたしの忍術を疑うのかい?)
不満げに耳元で呟く素間は、付髪ごと、庄助の背にぴたりと貼り付いている。実に不愉快だ。
(お前だからこそ、不安なんや)庄助の胸の内を、
「あんたは信用ならん」
代弁した誠二郎に、思わず頷いた。
「無理にとは言わん。嫌ならやめればいい」
安五郎の言葉に頷いた素間が、庄助の背を押した。黒髪が撓んで、庄助は慌てて素間に手を伸ばす。(悪かった)頭を下げた庄助に、
「わかった」誠二郎が呟いた。何だか悪党が、有利な気がする。
「昭暝はここに探し物がある。金剛證寺に潜り込んだ由縁だ。修験者が、伊勢の霊山を修業の場に選んでも、不自然ではないからな」安五郎の言葉に、素間が飛びついた。
(こら魂消た。なるほどそれで昭暝は、あたしを張ってたわけか。ふーん、面白い。人の話は聞くもんだねぇ)
「やつの探し物が、何かまでは知らん。探し物は、上のほうにあるようでね、帰りには必ずここを通る。気分を損ねんように、ここで待つんだ。やつは割の良い仕事をくれるんでね」
「童殺しもその一つか」吐き捨てた誠二郎に、
「ありゃあ、無駄骨だったな。女を置き去りにして損をした。大年増だが、良い女だった」
(お美衣さんに聞かせてやりたいねぇ)
(いいや。聞かせんほうがええ)庄助の背が震えた。
「あんた八瀨童子か」誠二郎の声に、庄助の髪が逆立った。弥平が怒っているらしい。
「まさか。式部を張ったのは仕事だ。あんたの助っ人では、稼ぎが足らんのでね。伊勢にいる間、仕事はやれるだけやった。人が集まる伊勢には、儂らの仕事は山ほどある」
(出稼ぎか。悪党も大変だねぇ)肘鉄を食らわした素間から、堅い感触が伝わって、庄助の脳天を打つ。
「一所には留まらん流儀でね、何度も足を運んだ伊勢にも、顔馴染みはいない。間の山の小童は目障りだった。あんたのおかげで後の憂いが消えたわけだ。だからあんたには、きちんと借りは返すぜ」庄助の足の下に座り込んだ安五郎は、心底嫌な奴だ。
「あんた。昭暝を殺るつもりか?」
「とんでもない。おれは童らの無事を確認したいだけや。若君の到着までに、童に何かあっては困る。大事な身代わりなんやからな」
(それみろ。悪党や)庄助が呟き、(人の話は最後まで、聞くもんだ)素間が窘めた。
「間の山の芸人は、大神様のお気に入り。神域伊勢の穢れを、一手に引き受け祓う存在やと聞いた。若君に代わって、間の山の童が水垢離をすれば、若君の穢れは落ちて、大神様のご加護が受けられる、と。北ノ方様は、昭暝の進言に藁にも縋る思いで、おれを伊勢に送ったんや」
(水垢離のために神隠し?)庄助には、合点がいかん。
「水垢離童を雇うんが、おれの仕事や。人攫いなんて悪党仕事は予定外。童らの居所と、無事を確かめんと、わての儀が立たん」
誠二郎には、童への気配りがあるらしい。
「無事じゃなかったら、どうするんだ。殺るか?」
「あんたはどうやら、おれに昭暝を討たせたいらしいが、昭暝は敵やない。奴は事実、国元で、若君の命を狙った輩を捕らえ、暗殺計画を探り当てたんや。北ノ方様が、此度の伊勢参宮を決行したんも、昭暝への信頼があるが故。先代が亡くなられて後、お体の弱い若君は、一度も城外に出た例がない」
(過保護だが、早世の家系だ、無理もない。次男は昨年流行病で亡くなり、誕生と共に養子に出された三男、四男はどうやら北ノ方様の腹ではないらしい。北ノ方様には、若君だけが頼みなんだ。何としても無事成長し、当主となってもらわねばならん)
殿様の家は複雑だ。
蛇足だがと、素間が付け加えた説明によれば、水垢離童を求め、間の山に向かう誠二郎に、昭暝は、若君暗殺の刺客が間の山に潜り込んでいる、と告げた。
刺客の始末に送られた安五郎が、間の山で騒ぎを起こし、水垢離の交渉ができなくなった誠二郎は、大事な若君のため、神隠しを実行した。
(つまり。誠二郎は利用されたのさ。銭で雇った童らは、仕事を終えれば帰さにゃならん。だが神隠しとなれば……)
返す必要はない。間の山も、忽然と消えた童の捜索には難儀する。
「若君の体調を見計らって、ようやく決めた日取りなんや。大事とあって北ノ方様を始め、先代、先々代の寵臣方も従われる。万が一、水垢離ができんような次第となれば、おれの養子先、在の親にまで、お咎めがあるやろ」
(誠二郎は、菰野の山で生計を立てる郷士の子だ)
薬草を求め、先代領主が山に入った折、案内役として同行した誠二郎は、幼い若君に大層気に入られ、守り役として召された。
(郷士の子、誠二郎は、然るべき家に養子に入り、そこから御役目に上がったのさ)
武家とは実に、面倒だ。
「昭暝が童をどこに預けたかは知らんが、穢れに敏感な伊勢では、触穢を嫌って間の山のもんに別火を強いる。童らが、まともに飯を食っているかも心配や」
誠二郎の呟きに、庄助の胸に灯が灯った。
(だから、はざま屋なんだ。女将のおつたは間の山の女だよ)
素間の言葉に、庄助は目を剥いた。
今は亡き、はざま屋の隠居はそもそもが御師邸の三男。度々、出向いた間の山で、おつたと知り合い、恋に落ちた。だがしょせん、叶わぬ恋である。
男は松坂の木綿問屋に婿入りし、一度死んで間の山を出たおつたは、遊女となって古市で男を待った。嫡男に後を託し、早々に隠居した男は、おつたを身請けして、はざま屋を始めた。
(はざま屋には、隠し部屋がある。禁忌の恋に落ちた、二人の憩いの場所だ。御師の客が多いはざま屋は、別火を持って間の山の芸人をも、受け入れる)
まさに、禁忌の恋の間を取り持ったはざま屋――。ともすれば、間の山の童の中に、庄助と同じ、禁忌の子がおるやもしれん。おつたにとっては、我が子のように愛しい存在だろう。
(禁忌の子は、わてだけやないんや)思えば気も軽くなる。
(備前屋、油屋のような大遊郭と違って、自ら客を引く小店の遊女は、地元の噂をよく知ってるもんだ。誠二郎に、はざま屋の隠し部屋を教えたのは、鈴屋の遊女だろうよ。別火を持つはざま屋なら、童らの飯には事欠かん)誠二郎は、いいやつだ。
「誠二郎を死なせはせん」いきり立った庄助を、
「あんた、ほんとに目出度いな」庄助の足下で、立ち上がった安五郎が窘める。
(き、聞かれたぞっ)逃げ腰の庄助を、(安五郎ごときに、木隠れの術が破れるもんかっ)脳天を突く、素間の扇は常より堅い。木隠れの術は完璧だ。
「儂と取引きせんか。あんたが許婚のおせんに別れ状を出せば、童らの居場所を、教えてやる」安五郎の言葉に、誠二郎の顔色が変わった。
「幼馴染みだってな。残念だが、おせんはあんたの敵方にいる。昭暝は伊賀者だぜ。童は貴重な伊賀の後継者だ。昭暝は、あんたを嵌めたんだ。だが童は今、おせんの手にある。あんたの一存で、全てに片が付くんだぜ、いい話だろ?」
(業を煮やしましたね、若旦那)(うん。面倒臭くなってきた)
死に損ないと不死身は、無情に言い交わす。(許婚が人質?)わけのわからん庄助は、手に汗を握る。
「断る」
冷たく言い放った誠二郎に、庄助の体が前に傾いた。
最終決戦の幕開けです。庄助の活躍ぶりにご注目ください。またのご訪問、お待ち申し上げます。