アレキサンダー 及び 私的英雄論
13年前に書いた文章です。
過去に運営いていたホームページからの転載です。
作者は少年時代、英雄崇拝思想にかぶれていた時期がありましたが、後年、この思想については批判的に考えるようになりました。
05.2.9記
英雄とか天才という存在は同時代に生きている、あるいは、そのまわりにいる普通の人々にとっては、とても迷惑な存在であろうと思う。
もっとも、実際的な学問における天才は世間に寄与するところ大であろうし、 芸術的天才、スポーツにおける英雄、天才などは人々を楽しませる部分が大きいであろう。
が、軍事的天才というのは、なかなか厄介な存在、と思うし、
最も迷惑なのが思想的天才という奴であろう。
さて、アレキサンダー。
世界史上、「英雄」という称号が最もふさわしい人物であろう。
世界史上、トップの数人の内の一人といってよい軍事的天才であ るし、師であるアリストテレスも考えなかったような世界を構想した思想的天才でもある。
さらに、その容姿は美しく、32歳の若さで夭折。
世界史上最大の劇画的ヒーローである、とも言いえよう。
私の愛読書である「銀河英雄伝説」という小説に、ラインハルトという人物が登場する。
その人の容姿、天下をとった年齢、皇帝になった年齢、その戦争における勝利のあり方などを見ると、作者の田中芳樹氏には、
「アレキサンダー」という モデルがあり、「アレキサンダー以上の人物を描く」という意図があったのでは、と推察する。
しかし、このアレキサンダーという人物。まわりにいた同時代人にとっては、 迷惑な存在であったろう。
敵手であるペルシャ帝国の支配層がそう思うのは当然だが、従軍した数万の兵士にとっても、マケドニアから、インドまで引っ張りまわされ、10年もの間、故郷には帰れず、多くの人がこの遠征の途上で、その生を終えた。
むろん、この人に従ったからこそ得難い経験もできたわけだし、戦争に勝利したときの 高揚感にはすごいものがあっただろう。
しかし、その結果、何が残ったのかといえば、結局、犠牲に見合うだけのものは得られなかったのではないだろうか。
映画「アレキサンダー」でオリバー・ストーン監督は、アレキサンダーの東征を、偉大なる失敗と結論づけた。
私もそうであろうと思う。
戦争という行為は、人類のなす最大の罪ともいうべき行為で、決して許されるべきものではないが、もし、許される戦争があるとすれば、(決して広義には解釈しない)自衛戦争。
そして、相手の持ち物を奪わなければ、おのれが死ぬしかない、という戦争であろう。
アレキサンダーの東征は、もちろん、前者でも後者でもない。
それは、おのれの構想する理想の世界を実現させるための戦争であった。
この、イデオロギーを理由とした戦争というものは 戦争行為のなかでも、最も批判されるべき戦争であろうと思う。
英雄、天才は、通常ではありえないような、高揚した感情を、凡人にもたらせる。
しかし、それは日常的に継続されうる感情ではない。
その時代の常識からはるかに飛翔した思想は、同時代人にとっては迷惑なだけだ。