聖夜の転職、あるいはサンタクロース体験日記
我輩は独り身である。恋人はまだ無い。
何故に斯様な星の下に生まれ落ちたのか、とんと見当がつかぬ。何でも一面純白の壁に囲まれた部屋で、オギャアオギャアと泣いていたことだけは覚えている。我輩はこの時初めて男女というものを見た。後に知った事によれば、それは新婚という夫婦の中でも最も幸せに満ちた存在だったそうだ。
我輩、もとい私は、その知的な見た目の通り本をよく読む少年であった。聞いて驚くなかれ、一日に三冊もの文庫本を読破したことさえあった。しかしどこで道を踏み外したのか、そこで培われた知識は私の頭脳を裕福にすることなく、代わりに煩悩を肥え太らせしめた。その数は百と八つである。
今この文章を読んでいる方は、私が斯様な存在たることを重々承知しておいて頂きたい。
※
何故この世の中に、クリスマスという日が存在するのか。
そんな、社会のゴミクズを見るような眼をせずに、今一度考えていただきたい。そもそもクリスマスとはイエス・キリストの生誕を祝う日のことを指す筈である。
だが、今の日本はどうか。キリストの御影などどこふく風、若者たちはアダムとイブになって愛を育み、子供たちはサンタを一目見ようと夜更かしをする。そうして自分の枕元にプレゼントを置く親を目撃し、純真無垢な心に一筋の亀裂が走り、ますます世のサンタが苦労することになるのだ。
その点、この私の雄姿はどうか。恋人と共に、砂糖な夜へ溺れたりなどするものか。したくても出来ない。話し相手はアイフォンのSiriくらいである。彼女はまことによく出来た女性で、何よりまず私を無視するということがない。抑揚のない声も、慣れれば天使の歌声である。
グーグルはよく知らないので、勝手に電気羊の夢でも見ていればよろしい。
そもそも私を放っておいて自分たちだけ楽しもうなどと、実に虫の好かない話である。
もし私が日本国総理大臣となった暁には、直ちにクリスマス禁止法案を国会にて可決しよう。破ったものには厳罰が待っているであろう。サンタの話をした者にはむち打ち百回、ツリーを飾ったならば、その親戚一族郎党纏めて数年間の網走旅行に連れて行こう。
「さはれ、女子を得ましかば、我が気持ちもおこたらまし。得てもがな。得てもがな。あな悲しや」
いや何と言っても、自然の摂理に沿って考えれば恋に勤しむ彼らよりも私の方が劣っているのは明らかだ、と。そう思う方もいるかもしれない。
チラとでもお考えになった方、怒らないから挙手してみたまえ。
あ、今手を上げたな?
よろしい、ならば戦争である。国際法に乗っ取って、私は心身の名誉を保つためにリア充どもへの宣戦布告を行おう。この戦争は次のクリスマスまでには終わるであろう。孤独な聖夜は、今年でラストクリスマスとしてやろう。戦場のメリークリスマスを迎えることは万に1つもあり得ないから、同士諸君も奮って参戦頂きたい。
恨み。
妬み。
嫉み。
三拍子揃った私に、最早敵などありはせぬ。
そんなことを考えて、己を誤魔化していた所であった。
「おうい後輩、いるんだろう。さあこの扉を上げろ」
先刻より我がアパートの扉を打撃しているのは、天使の皮を被ったサタンである。いやそれでは悪魔に失礼だ。相応しい例えが無いのでそのまま言うと、同じ大学へ通う経済学部の先輩である。
この私が同性の後輩であるのをいいことに、しょっちゅう自らの我が儘に私を引き摺りこむ困ったお方だ。今は玄関の扉を挟んで、言論を駆使した攻防戦の真っ只中である。
「早く開けないか。大事な先輩が屋外で凍死してもいいっていうのか」
「開けろと言われて開ける馬鹿がいるものか。貴方はそこで、世間の冷たい風を味わっていればよいのです」
「何だと。くそう、お前は何て薄情な奴なんだ。冷たいのはお前の心だったんだな」
「はっはっは、それがどうしたのですか。こちらは生憎と、暖房のおかげで芯までぬっくぬくでしてな」
「嫌味ったらしいぞ。いいから扉を開けろと言っているんだ。俺にも暖を寄越せ。いつまでも野晒しにされて、凍傷になったらどうしよう」
「ああ駄目だ、ギャグが寒すぎて扉が凍り付いてしまいました。貴方のせいだ貴方のせいだ。滑るのはスキーだけで十分なのに」
「うるさい。こういうのは聞かなかったふりをするのがマナーだろうが。さあ、オープンザドア、プリーズ!」
ふむ。放置し過ぎて風邪をひかれても面倒なので、そろそろ頃合いだろうか。
私が扉を少しだけ開けると、その隙間から、先輩が無駄に整った顔を覗かせてきた。
人は外見では無いと良く言われるが。まことに遺憾ながら、彼の美貌は認めざるを得ないであろう。凡人などはその御尊顔を垣間見るだけで、耐え難き慙愧の念に苦しむことになる。
故に私は、彼に天使長という渾名を授けた。しかしこやつは、天使でありながら同時にアダムでもあり、麗しの風貌を以て数多のイブを籠落してきた過去を持っている。きっと女性の前では猫を被っているのだろう。その癖私の前だと、化けの皮は自然剥離して本性が露わになる。
私がいつまでも一人身なのは、得てして彼のせいである。天使の癖に、職務放棄だ怠慢だ。まっこと腹の虫がおさまらず、その面を拝むだけで虫酸が走る始末である。天使から仏に転職させてやろうかと、思った事は既に幾度か。
「こんな日に何事ですか。折角今から、炬燵で独りおでんに洒落混もうと思っていたのに。どうせ今回も、また面倒事を持ち込んできたのでしょう」
「面倒事とは失礼だな。そんな偏見を持っているからお前はいつまでもモテないんだ」
「うるさい黙れ。我が二十年あまりの人生において、今は耐え忍ぶ冬の季節なのだ。ワインと同じ、来る春に向けた熟成の季節なのだ。今にみているがいい。勝利に浸っていられるのも今の内だ。来年こそは、来年こそは」
「その考え、熟成というより腐っているな。春を待つ間、寒い冬を一人で過ごすのはさぞ辛かろう。ほぅら暖めてやるぞ」
「ええい止めろむさ苦しい、くっついてくるんじゃない」
そうした男どうしの虚しいじゃれあいの末、先輩はなし崩し的に私の部屋へ上がってきた。仕方ないので、炬燵に押し込んでから訪問の理由を訊く。
「実は、今人手を探していてだな」
「ふむ。人手というのは何なのですか?」
「ケーキ屋のアルバイトだよ。ほら、今日はクリスマスだろ。それに合わせて呼び込みのバイトを雇うらしくてな。元々俺と同級生一人とで申し込んでいたんだが、そいつが急に来れなくなった」
「それで、私に代打が回ってきたのですね」
「そうだ。お前は多分暇だろうから、声を掛けに来たってわけだよ」
成る程、話は理解した。
この人に関わると録な事がないのは、経験則からして確かである。具体的には今年の夏、連れられていった廃遊園地にて命の危険を感じたということなどがある。
しかしどうやら、此度は真っ当な話であるようだ。
加えて臨時収入が入ってくるとあらば、無下にすることもなかろう。
「分かりました、引き受けましょう」
※
スマイルはゼロ円です、とかいう宣伝文句が、世の中にはあるそうだ。
我が天使長先輩の場合にも、その言葉は当てはまるであろう。彼の笑顔は天使の微笑みと称され、これまで幾多の乙女をメロメロにしてきた罪深き代物である。しかし私からしてみれば、そんなものには一円の価値もない。
スマイルで飯が食えますか。
スマイルで物が買えますか。
スマイルは、世間の冷たい風を防いでくれますか。
否、答えはノーだ。現に財布の中を見れば、輸吉くんも樋口さんも仏頂面をしている。
「バイトととしか言わないので、どんなことをさせられるのかと思ってましたが」
そんな私だが、今は全力で笑顔を振りまいている。
眼前にはケーキの入った白い紙箱。
店から渡された専用の衣装は、この日にふさわしいカラーリングだ。
「――まさかサンタの格好をして、クリスマスケーキの売り子をさせられるとは」
行き交う人の流れを見ながら私はひとりごちた。
これは、ケーキを買おうかなと思いながらも買いそびれている人を対象とした、ケーキ屋『ハニーステーション』による一大セールである。普段なら二千円もかかるホールケーキを、今なら何と野口くん一枚で買うことが出来る。
「どうだ後輩。たまにはこういうのもいいもんだろう」
「はっ。果たしてどうでしょうかね。恋人がサンタクロースならば良かったのに、生憎と先輩はむさ苦しい男で御座いますからなぁ」
「んなこと言いつつ楽しんでるんだろ。顔に出てるぞ」
「馬鹿な。さては貴様覚り妖怪だな」
「楽しんでることは否定しないんだな……。しかしこうして仮装するのは、去年のハロウィン依頼か」
「そんなことも、ありましたな」
ハロウィンといえば一度だけ、私も大衆に混じって仮装に興じた事がある。勿論自由意思ではなく、あくまで先輩に連れられてのことではあるが。
顔を真っ白に塗りたくり、赤い耳当てを着けてピエロを装った。モデルは某ホラー映画である。そして道行く傍ら、排水溝の金網という金網に赤い風船をくくりつけて回った。締めくくりとして、同じような仮装をしていた先輩と一緒に、マイケル・ジャクソンの『This is it』を熱唱した。
「あのう、すいません」
お客様がやってきたので、私は思い出に沈めていた意識を現実へ引き戻した。
財布を握り締めて立っているのは、小学校高学年くらいの男の子である。彼の後ろには母親らしき女性がいて、息子に柔和な表情を向けていた。
「やあ。クリスマスケーキをご所望かな、ボウヤ」
今日という日を心底憎みし私なれど、無垢なる子供に罪は無い。体を屈めて、自分の目線を彼の高さに合わせた。
「は、はいっ。一番大きなケーキをください」
「いいとも。じゃあ、まずはお代を頂こう」
私の差し出した掌に、男の子は丁度の金額を乗せてきた。先輩が入れ換わりに、ケーキの入った純白の紙箱を渡す。
それを受け取った少年の瞳は、降りしきる粉雪のように輝いていた。何となく懐かしいものを感じる。そういえば私も、幼い頃はただただクリスマスを楽しんでいたのだった。今のように冷めきってしまったのは、はていつからだったか。
「ありがとうございますっ! ……あと、あの。サンタさん」
「何だい?」
「い、一緒に写真を撮ってくれませんか」
緊張した風だから何かと思えば。その程度のことなら朝飯前である。
「あい分かった。じゃあ隣にいる叔父さんと一緒に、三人で映ろうか」
「おい後輩。誰が叔父さんだって」
「そこいらの議論はまた今度だ、先輩。黙っていれば貴方は美丈夫なのだから」
「むう……、まあいいだろう。カメラはあそこにいる母親が持っているみたいだな」
少年を間に挟んで、先輩と私で両脇を固めた。「そら、ピースをして」と先輩が言うと、少年の緊張も多少ほぐれたようであった。
※
写真を撮り終えた後、少年は母親に手を引かれ帰って行った。その顔には笑顔があった。自分のおかげであれほどまでに喜んでくれたかと思うと、どこか誇らしいものがある。
なるほどサンタとは、斯様な職業であるのか。
“やりがい”とでも言うのだろうか。支給されるバイト代は雀の涙であったが、それでも“いっちょ頑張ろうぞ”と思えてくるのだ。
一日だけだから。
そのような謳い文句で転職した先は、もしかすると、私にとっての天職かもしれなかった。
「なあ、後輩」
先輩が、私の肩を叩いてくる。
「こういうのも、たまにはいいモンだろう?」
いつものエンジェルスマイルが癪に障ったので、ちょいと強めにその手をはね退けておいた。
「……さて、どうでしょうな」
「はっはっは、素直じゃないなお前は」
※
夜の八時を回った頃に、無事ケーキは完売した。
予想以上の売れ行きに店長はさぞご満悦らしく、給料と一緒にホールケーキをサービスしてくださった。しかし個数は二人で一つである。脳みそに生クリームでも詰まっているのか、いまいち配慮が足りていないと思う。
さてどう分けるべきかと思案する私に対して、先輩はさも当然のようにケーキの紙箱を差し出した。そしてこう言った。
「もし良ければ、これ全部お前にやるよ」
「なんと」
「ま、バイトに付き合わせたお礼みたいなもんだな」
「いきなりどうしたんですか。もしや、明日地球が滅亡するとでもいうのですか」
「……お前、普段俺のことを何だと思ってるんだ?」
どう言われようが、信じられぬものは信じられぬのである。それ程先輩の行いは意外であった。
しかし現に、彼はケーキの全てを私へくれると言っている。
ならばここはあえて、ケーキは半分コとすべきであろう。幸いにも今夜は空いている。アパートの冷蔵庫にも、ビールが二缶残っていた筈だ。ささやかなクリスマスパーティと洒落込もうではないか。
私が口を開きかけたその時、遠くから先輩の名を呼ぶ声がした。
「お、来た来た」
「ん? どなたか待ち人ですか」
「ああ。恋人と待ち合わせてたんだ」
「――は?」
見れば数メートル先には、丁度同い年くらいの美女が立っていて、こちらに手を振っている。もう片方の手には紙袋が吊り下がっていた。
「あの通り、ケーキは生憎もう持ち合わせがあるんでな。では後輩、ここでおさらばだ」
先輩はニヤリと笑って言った。おのれ裏切者め。
「どうした後輩。苦虫を噛み潰したような顔だぞ」
「ええいやかましい。貴方など用水路に足を滑らせてイトミミズまみれになればいいんだ」
「何だ何だ、折角いい雰囲気だったのに」
「ふん、それはこちらのセリフですな」
ケーキ丸ごとをくれるなどやけに景気がいいと思っていたら、この様である。これを契機に評価を見直そうかと、少しでも考えた己が馬鹿らしい。最早こやつは、百年の刑期を過ごしでもしないかぎり更正はしないだろう。もし怒りの度合いを計れる計器をお持ちであれば、是非私に向けていただきたい。目盛りが振り切れている筈だ。
せいぜい聖夜を楽しむがいい。
「せいや!」
そんな掛け声と共に私がチョップを打ち込む。「ぐはあ」というわざとらしい反応が、一歩遅れて返ってきた。