我が胸にある愛
16.6.9 書き足してます。
夕食後、ロザリンドはやっぱり吐いていた。気遣ったクラークが、ロザリンドの夕食メニューだけ量を減らしてくれたのだが、それでも完食はできなかった。デザートへたどり着ける日は、永遠に来ないかも。
「殿下、今よろしいでしょうか?」
浴室で、ロザリンドの背をさするジョーカーに、クラークの書斎から戻ったエリオットが躊躇いがちに声をかける。
「……行って」
ロザリンドが弱った声を出せば、ジョーカーはやれやれと首を振る。
「アシュレイ、頼む」
ロザリンドの頰に口付け、ジョーカーは立ち上がる。
ジョーカーと入れ替わるように、アシュレイが浴室に入室した。
浴室から出たジョーカーは、そのまま隣の部屋へ戻った。
「見つかったか?」
タイを緩め、外したそれを椅子の背もたれにかける。
「いえ。見つかったのは、今年と去年の分の帳簿。それから、葉巻も」
「葉巻? あれは嫌いだ」
エヴィエニス王国のみならず、ヴァールハイト王国の紳士にも親しまれている。葉巻だけでなく、最近は紙煙草も人気のようだ。
ただ、ジョーカーはそのどちらも嫌いだった。
「存じております。しかしながら、あの葉巻は我が国の製品です」
「……そうか。銘柄は?」
「『フェリータ』」
「あれか……」
名前を聞いただけで、脳内に情報が駆け巡る。
あの葉巻は、高級品ではない。かといって、安物というわけでもない。
「妻と娘は、王族御用達の紅茶を飲んでいるのに、伯爵当人は高くもなく、安くもない葉巻を吸っている。どういう意味か分かるか?」
見栄っ張りで虚飾性が強いのならば、最高級品を吸っているはずだ。
主の問いに、エリオットは視線を逸らすことなく答えた。
「自分で買ったものではない、でしょうか」
従者の答えに満足したのか、ジョーカーは微笑んでみせた。
「そう、自分で買ったものではない。なら、誰が伯爵へ贈ったのか、と言う疑問が浮かぶ」
ジョーカーは楽しそうに笑うと、上着を脱ぐ。
それを椅子にかけると、エリオットが控えの侍女を目で呼ぶ。
「エリオット。明日、その葉巻を1本、持って来てくれ。……ロザリーは?」
タイと上着を回収しようとする侍女に、問いかける。
「妃殿下は今、入浴中でございます」
侍女が上着と外されたタイを回収し、淡々と答える。
「すぐに入られますか?」
「そうだな」
「かしこまりました」
侍女は頭を垂れると、静かに部屋を出て行った。
程なく、ロザリンドが浴室から戻って来ると、今度はジョーカーが浴室へ入る。
ロザリンドと違い、ジョーカーはそこまでお風呂が好きなわけではない。嫌いと言うわけではないが、長湯はしない。
「妃殿下。他にご用はございますか?」
「ないわ。もう休んで」
「……こちらに水を置いておきますので、こまめに水分補給をしてください。よろしいですね?」
アシュレイが心配するのは、いつものことだ。申し訳ないと思いながらも、嬉しく思う時もある。
ロザリンドは笑顔で頷くと、窓際に置きっ放しだった本を取ってもらい、表紙を開く。
アシュレイは他の侍女を下がらせると、部屋の隅に控える。
「…………」
「…………」
沈黙の中、ロザリンドはページをめくる。昔から、読書は好きだ。自分の知らない知識、行ったこともないような世界を教えてくれるから。暇さえあれば、本を読んでいる。知識は、いくら詰め込んでも重くならないし。
「アシュレイ、ブランデーを頼む」
浴室から戻って来たジョーカーは、部屋の隅に控えるアシュレイにそれだけ告げる。
アシュレイは無言のまま一礼すると、部屋を出て、ブランデーを持って来た。
「もう休んでいいぞ」
「はい。殿下、妃殿下、失礼致します」
アシュレイとエリオットは揃って頭を下げると、部屋を静かに、音を立てないよう気をつけながら部屋を出て行った。
「明日も領地を視察しに行くの?」
「あぁ。朝食はどうする?」
ブランデーをグラスに注ぐと、ベッド脇の台へ置く。
まだ髪は少し濡れているが、気にせずベッドへと上がった。
「……出席しろと言うのなら、出席するわ」
「無理強いするつもりはない。出たくないのなら、それでいい」
ジョーカーは、ロザリンドの頼みを断らないし、自分の要求を押し付けることもない。
いつだって、ロザリンドの意思を尊重する。
「……明日は刺繍をするの。その間に、アシュレイが隠し帳簿を探すわ」
「そうか。……帳簿が見つかれば、すぐにでも動く。いいか?」
「構わないけれど、隠し帳簿だけでは脅しの材料としては不足だと思うわ」
本を閉じ、ロザリンドはベッドへ潜り込む。清潔なシーツに自身の体を預け、深く息を吐く。眠るのは嫌いだが、眠らずにいられる人間はいない。
「材料は揃ってる。帳簿が見つかれば、後は伯爵に突きつけるだけだ」
目に見えるネタは既に手中におさめている。重要なのは、言い訳のできない伯爵自身が持つ証拠だ。
そう語るジョーカーは、実に楽しそう。
「……眠らないの?」
グラスに新しいブランデーを注ごうとしたジョーカーに、ロザリンドが声をかける。
チラッとロザリンドを見れば、彼女の目は開いたまま。眠らなければならないのは分かっているけれど、瞼を閉じた先に見える闇が、たまらなく嫌い。
そんな妻を見て、ジョーカーは笑う。グラスを置き、部屋の明かりを消し、自分も横になる。
「お前はもう少し、誘い方を学んだ方がいい」
「……誰と?」
「相手はひとりしかいないだろ?」
暗闇の中、試すようなジョーカーの視線を感じた。
それを受け止め、ロザリンドはジョーカーの胸に上半身を乗せるように覆いかぶさる。
「自惚れだわ。そう思わない? 私には貴方しかいないみたい」
「実際、そうだろ?」
ロザリンドの白金をそっと撫で、ジョーカーは微笑む。近づけば、微かに香るブランデーと石鹸。
それがどちらの香りか分からないくらい近づいて、ロザリンドはそっと目を閉じる。
「……夜を過ごすのは、貴方だけよ。貴方がそばにいれば、眠れるもの」
「じゃなきゃ困る。眠れ、ロザリー」
唇に落とすキスは、間違いなく愛ある男女のキスだ。
もう何度も、ふたりの夜を過ごしてきた。最初はベッドに入ることもできなくて、部屋の隅で眠っていたことを思い出す。寒い冬はもっと眠れなくなる。暖炉の前で火が消えないよう、一晩中起きていた夜もあった。
ジョーカーが触れることさえ許さない日々が続き、こうしてベッドで共に眠る日が来ることは無いかもしれない。
そう思う夜もあったが、今は違う。
ロザリンドの隣で眠るのは自分だけだし、自分の隣で眠るのも彼女だけ。
「お前の眠りを妨げるものは、俺がすべて壊してやる。だからロザリンド。安心して眠るといい」
額に、瞼に、鼻に、頰に、唇に。
すべてにキスを贈ると、ジョーカーはロザリンドを愛おしく抱きしめる。
たとえ、世界のすべてが彼女を【悪】だと指差しても、ジョーカーは違うと言う。彼女の嘘も、言い訳も、その唇から紡がれるのであれば、どんな言葉だって信じる。
オスカー・J・ドラクロワは、そういう男だ。