微笑みの仮面
クレーヴァー領は、広大な領地を有しているが、その大半が農地だ。領民の多くが農民で、酪農も盛んだ。見て回るとなるとかなり大変だが、ジョーカーはあえて徒歩を選んだ。
「美しい光景ですね」
緑が広がる畑を、満足そうに眺める。
この光景は好きだ。働く農民、風に揺れる緑の苗、時折聞こえるのは、牛や馬の鳴き声。
この光景には、すべてが詰まっているように思える。
「あの方向には、何があるんですか?」
ジョーカーが指差したのは、森だ。
ここからでは何も見えないが、昨夜見た。
「部屋から明かりが見えていたので、畑か何かがあるのかと」
「あぁ……」
クラークは納得したように頷く。
「開拓中なんです。お見せできるような状態では……」
「そうですか。……クレーヴァー領では、主に小麦を?」
ジョーカーは興味がないのか、すぐに視線を畑へと戻す。
「はい、小麦が主です。他にも じゃがいもや家畜用の飼料も育てていますね。あとは果樹も」
「なるほど。ですが、冬は収穫が減りますよね。その間は何を?」
「酪農によって支えられています。とは言え、最近の若者は王都へばかり行きたがる。皆、農業を最後の手段か何かだとでも思っているようで……」
農業は、国の食を支える重要な仕事だ。
だが、泥や汗にまみれて働きたい若者は少なく、多くの者が華やかな王都へ行きたがる。夢が叶うと夢見て。
「大切な仕事です。我が国では、農家への支援を国が全面的に引き受けています。補助金を出したり、税金を安くしたり。エヴィエニス王国では、どんな政策を?」
「……特には、何も」
「そうですか。では、1度陛下と話し合ってみましょう」
2年前、この国の王は変わった。フィリップ王から、息子のアロイス王へと。王が変われば、国の雰囲気も変わる。2年しか経っていない言う者もいるだろうが、2年もあれば変えることはできる。良い方にも、悪い方にも。
「殿下は、他のご兄弟よりも早く結婚されたそうですね」
クラークが持ち出した話題に、ジョーカーは視線を移すことなく相槌をうつ。
「周囲にも早いと言われましたが、運命だと思ったので」
「運命、ですか?」
「えぇ。伯爵は信じますか? 運命を」
「私は……どうでしょうか」
「妻と出会った瞬間、私は運命を感じました。彼女以上の女性など、この先出会えるはずはないだろう、と。だから、結婚したんです。結婚は良いと思いませんか?」
「そ、そうですね」
妻がいる身だ。悪いとは、口が裂けても言えないだろう。
クラークは苦笑いをしている。
「結婚はいい。堂々と相手を縛れるから」
「……殿下?」
今、怖いことを言ったような……。
しかし、聞き返す勇気はない。クラークは聞かなかったフリをすることに決めた。
「次は牧草地を見たい。いいですか?」
「はい、ご案内致します」
クラークが従僕に命じると、すぐに馬車がこちらへ向かって走って来る。自分へ向かって来る馬車を見たジョーカーは、視線を背後の森へと移す。
(開拓中? 夜中に明かりをつけてまで? 見え透いた嘘ほど、つまらないものはないな)
ジョーカーは無表情で、森を見つめる。
あの場所に何があるのかは、既に分かっている。
だから、焦る必要はない。ゆっくりで良いのだ。
彼女の――ロザリンドの望むペースで進めば、それで良い。
お茶会の場所は、伯爵邸の中庭。白い薔薇が咲き誇る中庭を眺めながらのお茶は、格別だろう。
ロザリンド以外は。
「妃殿下、無理はなさらない方が……」
目の前の紅茶を、ロザリンドは神妙な面持ちで見つめている。アシュレイが耳打ちすると、ロザリンドは小さく首を振り、カップを持ち上げた。
「良い茶葉ですわね、夫人」
香りを確かめ、カップに口をつける。味わうべきなのだろうが、香りで分かった。
これは、ネーベル領で取れる最高級の茶葉だ。薔薇の香りと、紅茶の色――忘れるはずがない。
「そうでしょう。特別なお客様にお出ししていますの」
アデリンは微笑み、薔薇の香りのお茶を楽しむ。
ロザリンドは微笑み返すと、すぐにカップをソーサーへ戻す。
「よろしかったら、こちらのケーキも食べてくださいな。娘が作りましたの」
アデリンにすすめられたのは、チーズケーキだ。美味しそうだが、ロザリンドは食べたくない。
だが、食べないわけにはいかない。
「……そうですか。お上手ですね」
メーガンを見れば、彼女は躊躇いがちな笑顔を向けてきた。お茶会の主催者はメーガンだが、彼女はやっぱり乗り気に見えない。
恐らく、両親にせっつかれたのだろう。
「貴族の娘なのだから、厨房に立つ必要はないのに、この子ったらお菓子作りが大好きなんです」
「良い母になれますわ。自分の子に、お菓子を作ってあげられますもの」
ロザリンドはフォークを手に取り、ケーキを一口分、口に運ぶ。チーズの香りと味が、口の中に広がる。美味しいはずなのに、ロザリンドは今すぐにでも吐き出してしまいたい。
「妃殿下は、どんな紅茶がお好きですか? 娘は甘い香りの物を好みますの」
「私は……実のところ、紅茶はあまり好きではないんです」
「まぁ……」
アデリンが驚いたように口を開ける。テーブルに広げられたカップを見つめ、侍女を呼ぼうと手を上げ――。
「お気になさらず。飲めないわけではないので」
そうして、ロザリンドはもう一口飲む。熱い紅茶が、喉から胃へ流れて行く。
この感覚が、たまらなく嫌い。
「どうして……紅茶が嫌いなんですか?」
メーガンが、恐る恐る口を開いた。
こちらを見てくる視線には、複雑な感情が宿っているように見える。
「どうしてかしら? 昔から、あまり好きでは無かったの。何かが入っているようで」
「何か?」
不思議そうに、アデリンが問い返す。
ロザリンドはカップの縁を指でなぞりながら、中の紅茶をジッと見つめる。
この液体を、自分は何度飲んだだろう。美味しいもの、香り高いもの、それから、飲むに耐えられないもの。
それら全てを、自分は微笑みの仮面をつけて飲み干してきた。
「そう、何かです。レディ・メーガン。貴女には、分かるかしら?」
「私、ですか?」
「えぇ」
「あ……すみません、分からないです」
何か答えを探していたようだが、結局、見つからなかったようだ。
ただメーガンは、そっと目を伏せるだけ。
「気にしないで。良かったら、名前で呼んでくださらない? 妃殿下なんて、余所余所しいわ。年が近いのだし」
「は、はい」
「なら妃殿下も、娘を名前で呼んでください」
アデリンがいなければ、きっとこのお茶会は静かなものだっただろう。会話もなく、すぐに終わり。
ロザリンドはその方が良かっただろうが、生憎、すぐには終わりそうにない。
「そうしますわ」
ロザリンドは微笑み、カップを見つめる。何も入っていない、ただの液体。ケーキだってそうだ。何も入っていない。
それなのに、それを分かった後でも、この心は叫びそうになる。
過去を思い出せ! 忘れるな!
そう、叫ぶのだ。
「メーガン、仲良くしてね」
「……はい、ロザリンド様」
メーガンは思った。
エリザベス・ミルフォードも、こんな風に笑う女性だった。優しく上品に、まるでお手本のような笑みを浮かべる女性。
その微笑みを見るたびに、自分の罪が責められているような気分になる。
すべてを知っているのよ。
でも、知らないフリをするわ。貴女がその間違いに気づく日を待ってる。
「メーガン。明日は刺繍をしましょう。得意かしら?」
「は、はい」
慌てて顔を上げれば、メーガンは反射的に返事をする。
アデリンは失礼でしょ、と小声で叱ってきたが、ロザリンドは微笑んだまま。
その微笑みは、まるでお手本のような、完璧な微笑みだった。