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雛菊はまた、咲くだろう

 デイジーが屋敷へ戻ると、ネヴィルは寝室の中を歩き回っているところだった。落ち着きがない。


「送っていただき、ありがとうございました」


「仕事ですので。失礼します」


 エリオットは儀礼的に頭を下げると、部屋の扉を静かに閉めた。


「……何をしてるの?」


 ネヴィルはちっとも、こちらを見ようとしない。デイジーのドレスは雨と泥で汚れているし、髪はボサボサ。エリオットが送り届けてくれたことさえも、気づいていないのだろう。


「エリザベスが殿下に抱えられて戻って来たんだ。心配だ――どうしたんだ?」


 ようやく、ネヴィルはデイジーを見た。彼女の姿を見たネヴィルは、驚いている。当然の反応と言えるだろう。

 これで無関心だったら、さすがのデイジーも殴っていたかもしれない。


「雨に濡れたの」


 嘘は言っていない。

 デイジーはタオルを持ってくると、髪や顔を手早く拭いていく。

 その間、ネヴィルは怪しむような目を向けていた。


「お前、まさか――」


「お願いがあるの。貴方にとっても、悪くない話よ」


 濡れたタオルを握り締め、デイジーは真っ直ぐにネヴィルを見た。ドレスは濡れたままで早く脱いでしまいたいが、この気持を今、伝える必要がある。


「なんだよ? 買いたい物があるなら、好きに買えばいいだろ」


「別れましょう」


 デイジーはハッキリと、そう告げた。淀みのない声だった。体は疲れているが、声には力がある。


「……は?」


「離婚しましょう、と言ったのよ」


 混乱するネヴィルと違い、デイジーは落ち着いている。

 あの丘で、デイジーは色んなことを考えた。

 ネヴィルが好き。愛してる。彼のそばにいたい。愛されないと分かっていても、彼の隣には自分がいたい。

 けれどこのままでいたら、ネヴィルは自分以外の誰かを愛するだろう。エリザベス・ミルフォードではないかもしれないけれど、結局は自分以外だ。


「喜ばないの? 私のこと、嫌いでしょ?」


 自嘲するように、デイジーは笑っていた。

 この愛は、既に汚れている。愛している人のそばにいたい。

 そんな思いから、相手の気持ちも考えずにネヴィルを縛った。

 私は貴方の家を助けた。借金も返したし、これからの伯爵家を助けられるよう、商会の経営陣にも加えた。

 だから愛して。私は愛するに値する。

 そんな押し付けがましい愛を、純粋なものだと思っていた。


「あぁ、そうか。分かったぞ!」


 黙っていたネヴィルが、馬鹿にするような目でデイジーを見る。


「お前、好きな男ができたんだろ? だから僕と別れて、その男と結婚したいのか」


「…………」


 馬鹿な人。

 デイジーはそう思ったが、あながち外れてもいない。


「好きな人なら、いるわ」


「やっぱり! 安心しろ。僕はお前が愛人を持っても、気にはしない。だから――」


「私の好きな男は、貴方よ」


「……は?」


 2度目の、間抜けな声。

 本当に馬鹿。

 どうしてそんなに馬鹿なの?

 デイジーは悲しみを込めた目を、ネヴィルへ向けていた。


「ずっと、貴方に恋してた。気づいてなかったのでしょう?」


 ネヴィルの前で、自分はどれだけ笑っただろう。

 いつも不機嫌そうに、時には見下すように、そんな目で見てきた。自分の恋心を隠したくて。


「僕が、好き……?」


「そうよ。今も好き。愛してると言ってもいいわ」


 この恋心を知られれば、ネヴィルは自分をどう思うだろう?

 無理矢理にでも自分のものにした、我儘な娘だと思うだろうか?

 ならばいっそ、政略結婚だと思われている方がいい。

 この結婚に、当人達の意思はないのだと。


「ならどうして……」


「疲れたの。愛してくれない人を愛し続けるのって、かなり疲れるわ。知らなかった」


 努力はしたつもり。

 いつも身なりは綺麗にしていたし、妻としての心配りも気に掛けた。商売人の娘と馬鹿にされないよう、常に堂々と振る舞った。

 けれど、無意味だ。頑張っても、本当に欲しいものは手に入らない。


「……お前は分かってない。伯爵家だぞ? そう簡単に、別れられると思ってるのか?」


「思ってないわ。だから、きちんとした手続きをするし、別れた理由は、私のせいにすればいい。不貞だったとか、品位がないとか、なんでもいいわ。私はそれらすべてを、否定しないから」


 デイジーはそう言うと、クロゼットに行ってドレスを何着か手に取る。全部は持てないので、使用人に後は頼もう。


「……お前は、僕と別れたいのか?」


「そうよ。貴方を自由にしてあげる。だから、私も自由になるわ」


 考えた。愛する人が、自分以外の誰かと結ばれる未来には、耐えられない。

 その思いは今でも変わらないけれど、もっと苦しい未来もあるのだと知った。自分のせいで、愛する人を不幸にはしたくない。

 ならばいっそ、掴んでいるものを手放した方がいいのかもしれない。自分は傷つくこともあるだろうが、愛する人が悲しむよりはいい。


「貴方には、あんまり良いところはないのよね。女々しいし、エリザベスってうるさいし、私より数字に弱いし、たくましくもない。……でも、嫌いになれない」


 ドレスを握り締め、デイジーは弱々しい笑顔で真情を吐露する。

 きっと、嫌いになることはできないと思う。

 そんな別れ方をしていないから。


「いつか、貴方が思い出になる日が来るわ。もしかしたら、思い出になるよりも早く、貴方以上に愛する人が現れるかもしれないし、その人は私を愛してくれるかもしれない。――私は、幸せになりたいの」


 ドレスを手に、デイジーは扉へと向かう。濡れたドレスは重いし、体も疲れている。

 けれど不思議と、心は秋晴れの空のようだ。


「本気、なのか?」


「貴方が止めれば、私は留まる。でも、貴方は止めない。それが答えよ」


 デイジーは笑顔で、部屋を出て行った。

 ネヴィルは呆然と、立ち尽くしている。情報が多すぎて、頭がパニック状態。

 デイジーが俺を好き?

 そんなのおかしい。

 これは政略結婚だ。恋とか愛とか、そういうロマンスみたいな感情はない。

 それなのに、告白された後、当の本人は自分と別れたいと言った。意味が分からない!

 ネヴィルは視線を泳がせ、部屋の中を歩き回る。

 つい先程まで、ロザリンドのことを考えていたのに、今はもう、デイジーのことで頭がいっぱいだった。





 浴室バスルームへ入ったデイジーは、ドレスを乱暴に脱ぐと、お湯を張ったバスタブに躊躇なく飛び込んだ。ものすごい音を立ててお湯があふれ出したが、構わない。気分は晴れやかだ。

 自分でも驚いている。別れを切り出す日が来るなんて!

 しかも自分から。


「……はぁ……」


 今この瞬間も、愛してる。離れたくはない。

 けど、離れる道を選ぶ。

 それはネヴィルの為でもあり、自分の為でもある。

 そう、私は幸せになりたいの。願わくば、ネヴィルのそばで幸せになりたかったけれど、それは叶いそうにもない。

 いつかこの恋も、思い出に変わる日が来る。嫌いになどなれないのだから。


「……やっぱり、止めなかったわね」


 愛されていない。愛されることもない。

 だから、止めてもらえるとは思っていなかった。期待していなかったと言えば嘘になるけれど、もうやめる。

 これが最後。

 デイジーは浴室バスルームの天井を見上げながら、涙を流した。

 この恋は、終わったのだ。





 ロザリンドは寝巻きに着替え、ベッドで眠っていた。ジョーカーはベッド側に椅子を持って来て、そこに腰掛けている。本を膝に置き、片手はロザリンドの手と繋がれていた。

 ロザリンドの手は冷たい。アシュレイが毛布を持って来てくれているが、それでも冷たいままだ。


「殿下。お休みになられないのですか?」


 部屋に入って来たアシュレイは、湯たんぽを持っている。

 ジョーカーは時計を見れば、既に日付が変わっていることに気づいた。


「そろそろ寝る。デイジー嬢はどうだ?」


「客間でお休みになっておられるようです。それから、アイリスとランドルート様から報告が……」


「あぁ、亡命の件か。何かあったのか?」


「何事もなかったそうです。アウルム領は、無事出られたと思われます」


「そうか」


 興味がないのだろう。ジョーカーは追求しない。

 アシュレイは迷いつつも、湯たんぽをベッドの足元に忍ばせ、ジョーカーを見た。


「失礼を承知で言います」


「構わん」


「……私は常々、思っております。殿下の過保護が、妃殿下の世界を狭めてしまうのではないか、と」


 アシュレイの言葉に、ジョーカーは顔を上げる。


「その、殿下の寵愛はよく分かりますが、あまり過保護すぎると、妃殿下が他者と関わる機会を無くしてしまうのではないかな、と」


 ヴァールハイト王国にいた頃から、ジョーカーはロザリンドといつも一緒にいた。周りは仲睦まじいで済ませていたが、アシュレイは危惧している。

 ジョーカーは王子だ。周囲の者は敬意を払い、距離を取る。

 そんなジョーカーが常にそばにいたら、誰もロザリンドに近づこうとはしない。男性は近づかなくても良いだろうが、同性の友人だってできないだろう。


「……過保護なのは理解している。世界を狭めている自覚もある。だが今の状態で、目を離せるはずがない」


 食事も完食しない。夜は何度も目を覚ます。人間不信と言っても過言ではない状態のロザリンドを、誰が放っておけるだろうか?

 この手を離すつもりはない。


「アシュレイ。お前にもひとつ、言っておきたいことがある」


「なんでしょうか?」


 アシュレイは思わず、身構えてしまった。


「世界を狭めているのは、お前も同じだろう」


「私が、ですか?」


「そうだ。いつまで愛人の娘を引きずるつもりだ?」


 ロザリンドの話かと思っていたら、自分の話。驚いたアシュレイは、すぐに返答できなかった。


「お前はアシュレイだ。愛人の娘だからと卑屈になっていないで、与えられる愛情をしっかりと受け入れろ。そうしたら、気づくこともある」


「……分かりました」


 納得しているわけではないが、王子からの言葉だ。ありがたく頂戴するしかない。


「寝る」


「はい」


 アシュレイが足早に部屋を出ると、ジョーカーはランプの火を消す。部屋は一瞬にして暗くなったが、月の光が室内を照らしてくれていた。

 いつの間にか、雨は止んでいたようだ。



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