クレーヴァー伯爵家
クレーヴァー領は、ヴァールハイト王国との国境にも近い。治めているのは、プレスコット家。広大な領地のほとんどが、農地となっている。
この領地の収入源は、穀物なのだ。領民の多くが、農地を耕す農民。秋になると、黄金色に輝く小麦畑が領地を彩るのだ。
それは見事な光景で、多くの者の心を奪う。
「殿下、妃殿下。到着しました」
馬車の扉を開けたのは、ジョーカーの従者であるエリオット・バークワース。腰には細身の剣が光っており、彼がただの従者ではなく、戦える従者であることを示してくれている。
「ロザリー」
ジョーカーが馬車を先に降り、ロザリンドに手を差し出す。
その手を借りて、ロザリンドはクレーヴァー領へと降り立った。
「ようこそおいでくださいました。私はクレーヴァー伯爵、クラーク・プレスコットと申します。妻と娘をご紹介しますので、中へどうぞ」
ロザリンドが馬車から降りると、待っていましたとばかりに男性が近寄って来た。焦げ茶色の髪が少し薄くなっているのは、年齢のせいだろう。年齢相応に、お腹も出てきているようだ。
ジョーカーは笑顔で、クラークと握手を交わす。
「オスカー・J・ドラクロワと申します。妻のロザリンドです。しばしの間、世話になります」
ロザリーは声を発することなく、控えめにお辞儀をする。
「お部屋はご用意しております。それにしても、我が国と貴国が同盟国になるとは……嬉しい限りです」
腕を組み、ふたりは伯爵邸へと足を踏み入れる。
プレスコットは伯爵家だが、資産で言えば大したことはない。収入は安定していると言えるが、領地の管理にかなりの額が飛んでいく。冬は穀物を育てることが出来ないので、春から秋までは来る冬のために貯蓄しておかなければならないし。
それを表すように、伯爵邸は色々と目がつく。建物は典型的なカントリー・ハウス。 掃除は行き届いているようだが、カーテンの色がわずかばかり色あせている。通された応接間のカーテンも同様。壁紙も変えていないのだろう。流行のものとは言えない。調度品も、磨かれてはいるがいかんせん古すぎる。
「妻のアデリンと、娘のメーガンです」
「アデリン・プレスコットと申します」
「め、メーガン・プレスコットです」
ふたりは淑やかに挨拶を済ませる。
ふと、ロザリンドはあることに気づく。屋敷の調度品が古く、カーテンも変えられていないのに、彼らの服は良い品だ。伯爵家なのだから当然と言えるが、新しいドレスに、新しい靴。壁紙は流行遅れなのに、ドレスは流行のデザインだ。
ロザリンドはチラッと、娘のメーガンを見てみた。視線に気づいたのだろう。メーガンも、こちらを見る。
そして――。
「エリザ――!!」
驚いたメーガンは、大きな声を上げる。両親に睨まれた為、言葉は途中で遮られたが、ロザリンドには分かった。
エリザベス――そう言おうとしたのだ。
「ロザリンドと申します。見た所、年が近いようですわ」
美しい笑顔を浮かべて、ロザリンドはメーガンを見つめ返す。馬車の中でしっかり眠ったからだろう。気分が良い。
「娘は17でございます、妃殿下」
「そうですか。妻は18なんです。レディ・メーガン。良かったら、話し相手になっていただきたい」
ジョーカーが微笑むと、メーガンは頬を薔薇色に染めて頷く。
なんと愛らしい姿だろうか。 初心なその姿は、多くの男性が望む理想そのもの。
「ありがとうございます、楽しみにしていますわ」
「は、はい」
メーガンは、ロザリンドを見ようとしない。
まるで、幽霊か何かを見たような顔をしている。
それが可笑しくて、ロザリンドはつい、笑みが溢れてしまっていた。
ふたりがクレーヴァー領へ滞在する間使う部屋は、使用人達が隅から隅まで掃除したので、ホコリひとつない。清潔な白いシーツに、ふかふかの枕、天蓋まで付いている。書物をするための机には、上質な紙とインク。隣の部屋には、浴室もあるし、湯冷めする心配のない距離だ。
国賓を招く部屋にしては手狭だが、文句を言うつもりはない。この国へ来ると決めた時点で、国王に伝えてある。特別扱いはいらない、と。
「殿下、しばしお時間をいただいてもよろしいでしょうか?」
声を発したのは、エリオットだ。
この部屋には今、ロザリンドとジョーカー、エリオットの3名しかいない。国から連れて来た使用人は、荷物の片付けに大忙しなのだ。伯爵邸に滞在すると言っても、期間は長くない。すべての荷物を紐解く必要はないので、必要なもの、そうでは無いものとに分けているのだろう。
「屋敷の全体図を把握して参ります」
「あぁ、頼む」
エリオットは一礼すると、部屋を出て行く。
ジョーカーはフロックコートを脱ぐと、ベッドへ投げる。
「ロザリー。すぐにアシュレイが来る。それまで待っていろ」
ロザリンドは部屋に入ってから、1度も声を発していない。
それどころか、身動きひとつ取っていない。
ジョーカーが歩み寄れば、ロザリンドはようやく1回、首を縦に振った。顔色が悪い。
「座ったらどうだ?」
「……気にしないで」
ジョーカーはやれやれと言った様子で、ベッドの足元に置いてあるオットマンに腰掛ける。
すると、彼は両腕を広げてロザリンドを呼ぶ。
「立ってると疲れるだろ」
「平気よ。アシュレイが来るまで待つわ」
1歩も動きたくない。家具にも触れたくない。
それを知っているジョーカーは、ロザリンドの手を引き、自分の膝の上に座らせた。
「これなら、触れているのは俺だけだ」
「……そうね」
ロザリンドは膝から降りようと思ったが、やめた。足を休めたかったし、ジョーカーの優しさに甘えることに決めた。
ジョーカーの首に手を回し、体重を預ける。
「また痩せたな。きちんと食べろ」
「食べてるわ」
「この国に来たから、お前はもっと痩せるだろうな」
「……食事は嫌いなの」
嘘は言っていない。量は少ないが、確かに食べている。
でも、量があまりにも少ないから、栄養が足りていないのも確か。体重は落ちていくばかり。
「お前は嫌いなものが多すぎる。嫌いなものじゃなく、好きなものを数えろ」
「好きなもの? ……あるわ。たくさんある」
ロザリンドは、ジョーカーの肩にそっと頭を乗せる。
そして、自分の指を使って数え始めた。
「静かな雨、石鹸の香り、猫」
「他には?」
「流れる水の音、月の光、それから――」
「それから?」
「お父様とお母様、お兄様も好き。アシュレイも好きだし、エリオットも好きよ」
「俺は? 夫のことは、数えてくれないのか?」
ロザリンドは微笑む。
子どもみたいなことを言わないで――その言葉を飲み込み、代わりに出てきた言葉は。
「貴方のことは、愛しているもの。他と一緒には、数えられないわ」
妻の答えに満足したのか、ジョーカーは笑顔を浮かべてロザリンドの頰にキスを落とす。
――コンコンコン。
「入れ」
ノックの音に、ジョーカーは顔を上げることなく返事をする。入って来たのは、ロザリンド付きの専属侍女アシュレイ・キャンベル=ジョーンズ。
アシュレイは自身の主人達が睦み合う姿を確認すると、目を伏せる。見ないのも、礼儀だ。
「始めても?」
「手早くな」
アシュレイは許可が出ると、すぐに仕事をはじめた。ベッドの下、シーツの中、天蓋の上。部屋のありとあらゆる場所をチェックする。引き出しを開けて、中に入っているお香もチェック。
「どうだ?」
「何もありません。問題ないかと」
チェックを終えたアシュレイが、頭を垂れる。
このチェックは、恒例行事だ。
ロザリンドは、自分の領域ではない場所では、身動きひとつ取れなくなる。
その時は必ず、アシュレイや侍女達が部屋をくまなくチェックするのだ。ドレスに針が仕込んでないかとか、ベッドに蛇がいないかとか。
「妃殿下のお着替えをお持ちします」
「頼む」
アシュレイが部屋を出て行くと、ジョーカーはロザリンドを抱えたまま立ち上がった。ジョーカーがたくましいからなのか、ロザリンドが軽いからなのか。
兎にも角にも、彼は抱え上げたロザリンドをベッドへと運ぶ。
「ジョーカー。面倒な妻を、貴方はいつか嫌いになるわ」
自分でさえも嫌になる。はじめて入る部屋のみならず、信用できない人間が1度でも入れば、またチェックし直し。アシュレイも侍女も嫌な顔はしないが、ジョーカーはいつか嫌になるだろう。
ロザリンドはそう思っている。
「もしそうなったら、お前のその手で殺してくれ。お前を愛さない俺なんて、きっと俺じゃないからな」
ロザリンドの唇に触れるだけのキスを贈ると、ベッドから離れる。
「彼女とは知り合いなのか?」
「彼女? あぁ、レディ・メーガンのことね」
シーツにおずおずと触れて、安全を確かめる。
そうしてようやく、ロザリンドはヘッドボードに背を預けた。
「……昔、何度かお茶会で会ったことがあるわ」
「あまり良い思い出ではないようだな」
ジョーカーは微笑むと、窓に近づく。閉じられたカーテンを開け、外の様子を観察する。遠くに点々と見えているのは、明かりだろう。畑は、魔物や動物達の被害に遭ってしまうから、見張りを立てているのだろうが……。
「……遠いな」
カーテンを閉じると、ロザリンドへと視線を移す。彼女は過去を思い出しているのだろう。目を伏せ、表情が暗い。
――コンコンコン。
「入れ」
「失礼致します。妃殿下、お湯の支度が整いました」
アシュレイの言葉に、ロザリンドは頷いてベッドから降りる。
「行ってくるわ」
「あぁ、待ってるよ」
ジョーカーを部屋に残し、ロザリンドは隣の浴室へ向かう。眠るのも食事をするのも嫌いだが、お風呂は好きだ。降り注ぐお湯は静かな雨、少し動けば水の音、泡立つ石鹸は清潔をイメージさせる香り。夜、月明かりを浴びながらなら尚良し。
バスタブは大抵、猫足だしね。