私はロザリンド
仮眠から目が覚めたのは、馬車が大きく揺れたから。
そのせいで、頭を軽くぶつけてしまった。痛みに閉じていた瞼を持ち上げれば、微かな笑い声が耳に届く。
チラッとそちらを見れば、美しい青年が笑みを浮かべる口元を手で隠していた。クセのない黒髪は、夜を思わせる色合い。瞳は血のような赤い色。誰が見ても、青年は美しい。カッコ良いとか、素敵だとか言う言葉では言い表す事のできない美しさを、青年は当然のように身にまとっていた。
そんな青年に、彼女は不満げな視線を投げる。
「笑わないで。痛いのよ」
「馬車の中で寝るからだ」
青年は再び笑みを浮かべると、彼女の隣へ移動する。笑われたことを許していないのか、彼女はプイッとそっぽを向いてしまう。
「子どもみたいな真似をするな。見せてみろ」
「…………そんなに痛くないわ」
ぶつけたのは、こめかみ近い部分。青年が自分の方に顔を向かせようとするので、彼女は正直に告白する。
本当は全然、痛くないのだ。驚いて目を覚ましただけ。
だから、そんなに心配しないでいいの。
そういうつもりで言ったのに、青年の気持ちは別の所にあるようだ。
「顔色が悪い。……また、悪い夢を見たようだな」
「………………」
青年が、そっと彼女の肩を抱く。
その仕草には、愛があった。彼女はコクリと頷くと、青年の肩に頭を預ける。
今、ふたりが乗っている馬車はヴァールハイト王国の国境近い、クレーヴェル領に入ったところ。
ここは既に、エヴィエニス王国だ。
「ロザリー。馬車を止めるか?」
「……いいえ、行くわ。止めないで」
重ねられた手を握り返せば、青年は安心させるように肩を抱く手に力を込めた。
この力強さと温もりは、いつだって彼女を――ロザリンドを安心させてくれる。
「ジョーカー、知っている? このクレーヴェル領にはね、四つ葉のクローバーがあるのよ。見つけると、幸運が舞い込むそうよ」
「欲しいのか?」
「欲しいと言ったら、探して来てくれる?」
「お前が望むのなら、夜空の星だって取ってやる」
「本当に?」
「あぁ。愛する妻の望みなら、なんでも叶えてやる。それが、夫の役目だ」
ロザリンドは微笑む。別に、夜空の星なんていらない。
ただ、青年の――ジョーカーのその言葉で、自分の心は安堵するのだ。彼の心には、自分がいる。
それを分かっているから、ジョーカー本人も口にするのだ。甘い睦言も、芝居のような台詞も。
「ジョーカー……もう少しだけ、眠ってもいい?」
「着いたら起こす。寒くないか?」
「寒いわ。……とても寒い」
まるで、あの屋敷のようだわ。
ギュッとジョーカーの手を強く握れば、彼は上着を脱ぎ、ロザリンドの肩にかける。
その温もりに、ロザリンドは安心して目を閉じた。
(眠るのは嫌い……)
夜も嫌い。ひとりも嫌い。寒い冬も嫌いだし、雪はもっと嫌い。食事をするのも嫌いだし、紅茶は何よりも1番、大嫌い。
けれど1番嫌いなのは、人間だ。自分以外が怖い。自分以外は信じられない。自分に向けられる視線、投げかけられる言葉。
それらすべてが、この心をかき乱す。穏やかに眠れる夜は、訪れない。
「ロザリンド、眠れ。……お前の眠りを妨げるものは、何もない」
そう、私はロザリンド。ロザリンド・クラウン・ドラクロワ。
ヴァールハイト王国第3王子オスカー・J・ドラクロワの妻。
彼が隣にいてくれるのなら、眠れる。底の見えない闇も、怖くない。
「………………」
ロザリンドは眠る。深い深い眠りの中へ、落ちていく。
眠るのは嫌い。
だって、夢を見るから。見たくない夢を、見てしまうから。