21
「坊ちゃん。もう、戦わなくてもいいんですよ」
半蔵の声だった。
倫之助にだけ、聞こえる声で。
「もう、十分です。十分、あなたは頑張りました」
「――半蔵……?」
倫之助のほおから粒が落ちる。
ぽたり、と、膝に落ちていった。
「俺は、どんな姿になってもあなたのそばに」
半蔵の言葉が遠くなっていく。
手のなかにあった楊貴妃が、地面に落ちた。
「倫之助!!」
はっと顔を上げ、右肩をばっさりと斬られている一彦を見上げる。
「お、俺は……」
ひどく安堵したような表情の一彦と鈴衛の手には、それぞれの風彼此が握られていた。
足もとにはかなりの量の血が散らばっている。
「よかった、戻ってきたか……」
「はん、ぞうの声が聞こえて……それから」
「そうか……っ、」
失血しすぎたのか、わずかにめまいがした。
「兄さん、大丈夫? 今、救護班に電話したからね」
「ああ、すまん」
未だぼんやりとしている倫之助を見下ろすと、ほおに涙の粒がついているのに気づく。
そっと指先でぬぐうと、ぼんやりとしたままの表情の倫之助が顔を上げた。
「一彦さん……その、傷は」
青ざめた顔で、一彦に問う。
一彦は「なんでもねぇよ」と、にっと笑った。
立ち上がり、再度動かなくなった半蔵の体を見据える。
また、倫之助を助けたのだなと思う。
半蔵の足もとから、少しずつ崩れ始めた。
「……半蔵」
倫之助がふらりと立ち上がる。
ぐずぐずと崩れ始めている半蔵の体を、ただ見つめていた。
「ありがとう、半蔵」
髪の毛で隠れた半蔵の顔が、わらった、ように見えた。
その直後――どしゃっ、と、多量の砂が崩れ落ちた音をたて、半蔵の形はもう跡形もなくなった。
倫之助の目には涙のあとが残っている。
それを言うつもりはないが、泣けたのだな、と思う。
数十分後、救護班が到着すると、ともに駆け付けた処理班の皆森の顔を久しぶりに見た。
「造龍寺さん! ひどい傷じゃないですか……!」
「まあな」
「この肩と指の切り傷……だいぶ深いですね」
倫之助は再度気を失ったのか、救護車の中のベッドで処置を受けている。
一彦も肩と指の傷口は広範囲で出血はあったものの浅かったため、ベッドに寝なくてもいいようだった。
処理班は大量にある陰鬼の死骸を処理し始め、救護班は先に機関へと向かう。
「……兄さん、大丈夫?」
「ああ。これくらい平気だ。おまえだって、疲れているだろ。少し寝たらどうだ」
「平気だよ。まぁ疲れたら寝るけど」
「そうしろ」
一彦のとなりに座っている、救護班の女性は傷の具合を見ていた。
「……きれいに深く切れていますね。まるで刃物で切ったみたい」
「陰鬼にやられたんだよ」
「本当ですか?」
「本当だって、ぃってて」
清潔な布をぎゅっと肩のあたりで締め付けられ、悲鳴を上げる。
ちゃんと安静にしていてください、ときつく言われ、息をついた。
「半蔵くん、ちゃんと……逝けたかな」
「ああ。もう、きっと未練はないだろうよ」
「だったらいいな」
倫之助は別の救護車に乗っているため、どのような容体になっているのか分からない。
絶対に無事、ということは言えない。
風彼此にヒビが入っていたのだ。
廃人になるという最悪の事態も考えなければいけない。
「……倫之助くんも、大丈夫かな」
「何とも言えないな。倫之助の楊貴妃に、何か所かヒビが入っていた」
「!」
「このまま目が覚めないかもしれないし、目が覚めるかもしれない」
「そう……」
救護車はおおよそ数十分かけて、都内へ入った。
車は真っすぐ機関のビルに入っていく。
救護班の女性に手を引かれ、車から出ると目の前にストレッチャーに乗せられた倫之助がいた。
「倫之助……」
血の気のない顔の倫之助は、ぴくりとも動かない。
人工呼吸器をつけられているところを見ると、自力で呼吸もできないのだろう。
「容態は?」
「芳しくありません。外傷はほとんどありませんが、非常に衰弱しているようです」
「――そうか」
そのまま、ビル内に設置されている病室へと運ばれていった。
「造龍寺さんたちもですよ。さあ、病室へ」
一彦と鈴衛は背中をおされ、ビルの3階にある病院へと向かう。
歩くたびに肩と指の傷が痛むが、これくらいで済んでよかったと思わなければ。
病室には金守琴子が待っていた。
「一彦くん、無事でよかった」
「俺たちは軽傷だけどな。問題は倫之助だ」
「どれだけ強い陰鬼が出現したのかしら」
独り言のように彼女は言い、シャツを脱いだ一彦の傷口を診ている。
縫うまでにはいかない、と琴子は言った。
「傷口はきれいだったからよかったものの、左手の傷は深いわね。これでは風彼此を使うにも支障があるわ」
「すこしの間休むことにするさ」
「あら珍しい」
彼女はちいさく笑い、ぱちんと手を合わせた。
「けがが治ったら鈴衛さんと倫之助くんも一緒に、ご飯を食べに行きたいわね」
「いつになることやら」
「そんなこと言わない。倫之助くんはきっと目を覚ますわ」
医者の立場からそういうのなら、そうなのだろう。
無論一彦とて信じていないわけではないのだが。
「痛み止めと抗生物質出しておくからね。ちゃんと飲むように」
「はいはい」
「はいは一回」
「いてっ」
クリップボードで頭を軽くはたかれる。
それからかすかな沈黙が流れ、琴子は倫之助がいる病室がある方角を見つめた。
「今は何も聞かないけれど、きっと何かあったんでしょう」
「ああ、まぁな。そのうち話すさ」
「私に、でも嬉しいけれど五光班の人たちに話さなければいけないのではないの?」
「そのうちな」
「……まあ、いいけれど。あんまり、心配させないでね」
「ああ」
一彦は診察室から去ると、倫之助が眠る病室へまっすぐに向かった。




