19
言葉は凶器にもなる。
死に貶める凶器に。
「そう。どうだってよかったんだ。意味さえ、あれば。理由さえ、存在していれば」
白い空間に、声が降ってくる。
大蛇はぐるりと首を回して、倫之助がいる場所を探し始めた。
上下左右、どこを探してもあの男の姿はどこにもない。
「だけど意味も理由も、俺には最初から存在していなかった。俺は俺として、一介の風彼此使いとしてしか、意味も理由もなかた。特別でも、なんでもない。ただの風彼此使いの人間だ――」
「貴様がただの人間だと? 貴様は人間ではない。ただの化け物だ。陰鬼から生まれた、ただの化け物だろう!」
「そう――」
いまだ倫之助の声は、雨が降るように続いている。
「お前が俺のことを化け物、と言うのなら。お前は人間側なんだろう。俺は陰鬼がいたから生まれた。お前は人間がいたから生まれた。たったそれだけの、単純なこと」
どこにもいない。
どこにも存在していないということなど、ないというのに。
声が、
声だけが大蛇に聞こえている。
「どっちもどっち、なんだろう」
その声は耳朶に直接触れたようで、大蛇はその不快感で尾を倫之助の声がした場所へ振り上げて――殴った。
「――!!」
その力はそのまま大蛇に返ってきた。
頭を直に殴られたように、ぐらぐらとめまいにも似た現象がおきる。
その視界の端で、倫之助の姿を認めた。
男の姿はひどくあいまいに見える。
「千代の冠をお前に向けた。お前が俺を自覚しなければ、認識することもできないだろう。自分のことも含めて」
ずん、と、巨大な大蛇の体が床に叩きつけられた。
「貴様……何者だ。陰鬼から生まれとはいえ、この私が認識できないなどと……ありえない」
「……俺はただの人間。お前が無碍にしてきた、人間の力だ」
「ありえない。絶対に……ありえない」
倫之助の目が、細められる。
まるで哀れなものを見るかのように。
彼の頭上には、数十振の虚空が浮いていた。
「……!?」
息をのむ大蛇の視界には倫之助と、もう一人忘れることなど許されない男が立っていた。
黒髪、痩身の男。
カガチを殺した服部半蔵正成。
「貴様……は……!」
どっ、と、虚空が大蛇へと針のように落下してゆく。
貫通はしない。
ただ一直線に流れていった虚空は、大蛇の目玉へと正確に突いていた。
倫之助の耳朶に大蛇の悲鳴が響く。
血が床を跳ね、倫之助の足元に流れていった。
「……おの、れ……おのれ、死にぞこないが……!」
「死にぞこない?」
倫之助の高ぶっていた気が、かすかに静まる。
確かに。
確かに、そこにいるような気がした。
「……半蔵、なのか?」
視界がひずみ、めまいがする。
歯が軋み、それでも立つためにひざを叱咤した。
彼が、半蔵が、かすかに笑ったような気がする。
まだ終わってませんよ、と。
倫之助の肩に手を当てた、ような気がした。
楊貴妃を大蛇に向けたまま、その言葉をかみしめる。
これで終わるはずがない。
目玉がつぶされ、視界が機能しなかったとしても。
「!!」
直後大蛇の尾が鞭のようにしなり、倫之助がいる床に突き刺さる。
「見えぬなら……見なければいいこと」
空気が切る音。
倫之助の体は簡単に投げ出され、白い壁に体を打ち付けた。
「……が……っ」
体を強く打ち付けたせいで、呼吸ができない。
それでも体を叱咤して動かす。
目で見ることを放棄した大蛇は、それでも倫之助がいる場所を的確に分かっているようだった。
足を動かし、同じ場所に立ち止まらないようにする。
背中と肺が痛む。
千代の冠はもう、使えない。
見ることを放棄した大蛇には、意味がないからだ。
それにこれ以上使っても、心身に負担がかかり、戻れなくなる。
死なない。
殺されない。
絶対に。
半蔵が生かしたこの命を。
誰がないがしろにできようか。
無様に逃げ回る倫之助を大蛇は嘲笑っている。
倫之助はただ逃げ回っているわけではない。
最初に虚空で刺した傷は、まだ残っている。
深い傷だ。
体自体は堅いだろうけれど、傷がついている場所を再度切りつければ、それなりにダメージが通るはず。
「……っ」
避けきれなかったのか、肩に大蛇の牙がかすめた。
血がぱっと散っても足は動かす。
死ねない。
一彦も、きっと待っている。
このまま戻らなかったらおそらく、倫之助の体が暴走するだろう。
体が壊れるまで。
人間に、一彦に、刃を向けることになる。
ちら、と、光が見えた。
大蛇に傷を負わせた場所だ。
「……楊貴妃、もってくれよ」
体をひねり、足に力を入れる。
そのまま床から大蛇の背中に飛び込んだ。
傷口は赤いが、血は出ていないようだった。
「!」
ぐらり、と体が揺れる。
倫之助のいる場所をとらえているのだろう。
だが、今しかチャンスはない。
一度きり。
次はない。
すり減る体力と気力を振り絞り、虚空を呼ぶ。
先刻の虚空は、遠距離だった。
至近距離ならば威力は高くなるはずだ。
倫之助の周りに、数十振の虚空が出現する。
直後、雪崩のように大蛇を貫いた。
悲鳴。
耳をつんざくような悲鳴が大蛇からあがった。
「……!!」
大蛇の体が、ぐらりと大きく揺らぐ。
倫之助の心身はすでに限界を超えていた。
それでも意識を失ったら、おそらく目を覚ますことはできないだろう。
ぎりりとくちびるを噛んで、自我を保つ。
床に体を打ち付けられても、何とか目を開いていることに成功した。
「……っ、う」
楊貴妃を杖の代わりにして、ゆっくりと立ち上がる。
楊貴妃はかすかにヒビが入っていた。
このままでは、折れてしまう。
「……これでは、もう」
戦えない。
視界が揺れる。
足に力が入らない。
それでも、立っていなければ。
大蛇は血を流しながらも、わずかに動いている。
「――お前さえ」
がらがらとした、声だった。
「お前さえ、いなければ」




