18
ここは、と、倫之助が目を開く。
目を開くといっても、ここは現実ではない。
何もない場所だった。
ただ白く、ぼんやりとした場所。
「……カガチ」
倫之助の声に応えるものはいない。
「いるんだろう。ここに」
広くも狭くもない場所に、倫之助の声だけが響く。
物音ひとつしない。
だが確かにここにいるはずだ。
カガチの残滓は。
倫之助の右手には、楊貴妃が握られている。
「………」
ふ、と息をつく。
しかたがない。楊貴妃の切っ先を床にあてる。
「そこにいるんだろ」
床にあてた場所から、ぱきり、とかすかな亀裂が入る音がした。
そのヒビは徐々に広がっていき、やがてそれが見えた。
黄金色の目玉。
白い体をもつ巨大な大蛇が床の下に埋まり、黄金色の目を倫之助を見上げていた。
「……へぇ、まだ、容があったんだ」
「お前……。なるほど、外からではなく、中から破壊することにしたか」
赤い舌をちらちらと出しながら笑うように口を開く。
ずるり、と、大蛇は体を起こし、倫之助を見下ろした。
「だが、お前がここで死ねば現実のお前も死ぬ」
「そうだな。だけど俺は負けないし、死なない」
黄色の目が、きゅうと細められる。
「……そうだろう。そうだろうよ。簡単に死なれては面白くない」
「!」
床から完全に這い出た大蛇はおおよそ、5メートルはある。
楊貴妃を大蛇に向け、睨み上げた。
「お前は、ずいぶん図太く育ったものだ」
「………」
「前のほうが、まだかわいげがあったというのに」
「あいにく人間は変わるものだ」
「人間? 人間といったか、お前は。お前は人間などではない。ただの化け物だ」
「なんとでも呼べばいい。俺のことを待っている人がいる。その人のために、俺は戦う」
床に刃を埋め込む。
ばちん、と、音がした。
火花が散る。
そのまま、楊貴妃を跳ね上げるように大蛇へ切りつけた。
大蛇のあごを狙ったが、白く巨大な尾で楊貴妃を叩きつける。
柄から手を放すまいと足を踏ん張るが、体の筋肉という筋肉が悲鳴をあげた。
「お前は弱くなった。人間に近づこうとして、結果どうなった?」
大蛇は嘲笑いながら、倫之助を見下ろす。
「いらぬ苦しみを得、いらぬ悲しみを得、弱くなったお前などに私を倒すことはできない」
「そうかもしれない。……それでも、俺は勝つ。絶対に、お前には負けない」
大蛇の気配を注視しながら、目を伏せる。
倫之助のちょうど上。
おびただしい数の虚空が大蛇へ切っ先を向けていた。
房の付いた鍔のない柄が、白い炎をあげて大蛇へ空気を切る音をさせて雨のように降り注ぐ。
「……ぅっ、」
ひどい頭痛が襲う。
視界がゆがむ。
千代の冠、そして虚空、そして楊貴妃を同時に使用しているのだ。
風彼此が折れてもおかしくはない。
だが。
こんなところで折れて、気を失うわけにはいかない。
かすむ視界で、大蛇を見据える。
虚空は大蛇に突き刺さっていた。
たしかに突き刺さっていたのだが大蛇は尾をゆらりと揺らし、低い声で笑っているようだった。
「やはり、弱い。弱いな、お前は。そんなもので、私を殺せると思っているのか」
「……こんなもので殺せるなんて、思ってはいない……」
視界がまだ正常ではない。
まるで砂嵐のように、視界がちかちかとする。
「ならば、楽しませてほしいものだな」
「お前も……」
荒い呼吸を整える。
睨み上げ、そして告げた。
「お前も、人間と同じじゃないか」
黄色の目玉が、ぎろり、と、倫之助を見下ろす。
怒っているのだと、知った。
「私が……私が人間だと……? 人間ごとき、とお前は言うのか」
赤い舌が、ちらちらと見える。
膿んだような黄色の目玉を見開いて倫之助の頭を飲み込もうと、大きく口を開けた。
「そうだ。まるで人間のようだ」
「まだ言うか、貴様……」
「お前は、人間がいなければ存在できない、ただの子どもだ。お前を生んだのは、人間なんだから」
重たい質量の体が、倫之助を見下ろす。
聞きたくなどないというように。
嘘だとでもいうように。
けれど大蛇の耳をふさぐ手は、どこにもなかった。
「お前だってわかっていたんだろ。自分がどこから生まれたかなんて」
楊貴妃を大蛇に向けたまま。
皮肉そうに、倫之助は言う。
倫之助という肉体は、陰鬼がいなければ存在しなかった。
そう。
陰鬼がいてからこそ。
まるで逆だ、と、倫之助は嘲笑う。
「神という存在も――同じことだ」
びきっ、という、倫之助がいる床がへこむ音が聞こえた。
大蛇の尾が破壊したのだ。
だが、そこにはもう倫之助の姿はなかった。
倫之助の虚空はすべて消え去っている。
大蛇の傷口だけをのこして。
「――!!」
大蛇が首を上げる。
そこにも、倫之助はいない。
だが気配はある。あるというのに、まるでどこにも存在していないようだった。
「どこだ……どこにいる!」
そう。
そうだった。
紫剣総合学園にいたころも、確かそうだった。
どこにもいないようで、それでも確かにそこにいた。
「俺はいつも――いつだって、どうだってよかった」
強大な力を持つ大蛇に、絶対に勝てるかどうかなんて分からなかった。
ただ、
人間として今ここにいるのならば、勝てる武器がある。
それは言葉、だ。
ある人は言霊、とも言うのだろう。




