17
カガチの残滓には、斬ることも突くことも通用しないという。
霧を作るにも、斬ることも突くこともできないのならば、どうしようもない。
軽く、舌打ちをする。
霧はすでに晴れてしまっていた。
「そんな風彼此で、私は死なない」
非情な宣告のようだった。
「言いやがったな。お前」
くちびるの端を無理やり上げる。
百花王は、今の一彦が存在する証だ。
ともに戦ってきた、戦友でもある。
それをなまくらと言われて、ただでは死ねない。
「こいつが本当になまくらかどうか、試してやろうか……!」
すうっと息を吸った。
百花王の刀身が、ぱきぱきと音をたてて、凍ってゆく。
持ち主の声に応えるように。
凍ってゆくと同時に、再度温度差で霧が漂い始める。
じゃり、と音がした。
ふいに半蔵の顔が一彦から影へと、向けられる。
一歩。
ほんの一歩で、倫之助の体が半蔵の至近距離に、倫之助の間合いへと近づいたのだ。
黄金の目玉がぎらぎらと鈍く輝き、残像を生み出す。
「なるほど」
低くつぶやいた男は楊貴妃の先端を腕に埋め込ませていた。
瞠目したが、それでも致命傷には至らない。
そもそも血液がでないのだ。
埋め込ませたまま動かないことをよしとしたのか、男の手が楊貴妃を手折ろうと、刀身に触れようとした、その直前のことだった。
ずぐ、とした熱。
「……?」
「風彼此は、俺たち風彼此使いの心だ。なまくらと言われて、黙っている風彼此使いはいない」
唾棄すべき存在だ。
「ほう」
感嘆の声。
楊貴妃は、腕に刺さったまま抜けていない。
まるで強く固定されたかのように、動きもしなかった。
「俺は負けない。半蔵の魂が、ここにある」
負けない。
倫之助は決して負けない。
霧は先刻よりも濃く、なっている。
霧の中にらみ合う倫之助と、半蔵の面をした化け物。
「半蔵が負けるな、というから。俺は負けない」
「ずいぶんと自分勝手な言い分だな」
「それが、人間だ」
百花王の凍り付いた切っ先を、向ける。
ぴしっ、と、音がした。
突き刺さったままの、腕から。
「それが人間だ。自分勝手で、どうしようもない、それが人間だ。けど俺は、人間を見捨てない」
「……お前が、人間に失望しなかったから、私が生まれた。私という残滓が生まれた。これはお前たち人間の悲劇だ」
「違う」
一彦の吐き捨てるような声。
まるで、そんなことを思ったことなどないというような。
「それが悲劇なんぞ、俺は信じない。悪いが」
つま先に力をこめる。
ぱきん。
最後の音。
百花王の刀身から、おびただしい数の樹氷が突き出ていた。
地面からもまるでバラバラに枝分かれした氷が這い出ている。
「……これが悲劇だと誰かが思っていても、俺は思わない。独りよがりで自分勝手。これが俺という人間だ」
氷という氷が半蔵の腕や足、首にまで貫いていた。
「………」
半蔵の顔はすでに氷で覆われている。
氷は皮膚という皮膚に密着し、真空状態になっていた。
目玉も鼻も口もすべて覆われているため、声を発することもできない。
霧が徐々に、半蔵の体へ吸収されるように寄ってきている。
「こんなものじゃない」
倫之助はぽつりとつぶやいた。
これの力はこんなものではない、と。
「こいつは呼吸も必要としなければ、視界も必要としない。首を貫いて刎ねても、これは死にません」
「……まぁ、そうだろうな……。だとしたら、どうする?」
「これの心を、斬るしかありません」
「心を斬る?」
「はい」
ぱきり、ぱきり、と、氷がはがれる音がする。
そして煙が蒸発するように体から立ち上っていた。
「対峙してわかりました。これは、魂の存在。肉体を持たないから、風彼此が通らないんです」
「……タチが悪いな。分かっていたことだが」
「俺が潜ってみます。千代の冠を使って」
「天女の時に使っていた……大丈夫なのか?」
「――そうもいっていられません」
千代の冠は、五感すべてをシャットダウンする能力だ。
そして相手の時間を止める力でもある。
そんなことをして無事でいられるわけがない。
天女戦の時にも、倫之助は倒れてしまった。
だが。
だが、これしかないというのならば。
倫之助に、縋るしかない。
「一彦さん。お願いがあります」
「……なんだ」
「俺がどうなっても絶対に、こいつを倒してください。俺は潜って、心を斬ります。心が斬られたあとは風彼此も通るはずですから」
「おまえが、どうなっても……それは」
「死ぬつもりはありません。でも、こうするしかないんです。もし、俺が俺ではなくなったら容赦なく……斬ってください」
倫之助の赤い眼鏡の奥の目。
黄金色の。
誇り高く、にじむ色。
「あなたを信じているから頼むんです」
どうか、という。
「どうか、お願いします」
そんなことを言われたら、うなずくしかないだろう。
倫之助を斬ることが決まったわけではない。
まだ、分からないというのに。
「……分かった」
「ありがとうございます」
倫之助の目が、いまだ突き刺さったままの楊貴妃を見下ろす。
そうして、目をゆっくりと伏せた。
千代の冠。
できれば使いたくはなかった。
けれど、これしかないのなら。
五感をすべてなくすことは、その心をむき出しにすることだ。
倫之助だけにできること。
――もし、次に目が開いたことがあったらいい。
あの人に、ごめんなさいと言うことがなければ。
倫之助の意識はカガチの残滓へと檻を力づくでこじ開けるように、向けられていた。




