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望んでいたことが叶うということは、それはおそらく、奇跡にも近いものなのかもしれない。
倫之助は、ひとりで月を見上げていた。
ビルの屋上で。
毎日、月の名前が変わるということは、半蔵から教えてもらった。
それでも、一月後にはもとのなまえに戻る。
けれど、ひとはちがう。
一度変わったら、もう元には戻らないこともある。
われもののように。
「何してんだ、こんなとこで」
聞きなじんだ声を聞く。
「月を見ていました」
倫之助は特別驚くこともなく、正直に答えた。
一彦は紫煙をくゆらせながら、倫之助のとなりに立つ。
「月なんか見て、おもしろいか?」
「俺にとって、月は特別なものですから」
「そうか」
「明日、本当に行くんですか? あなたも」
明日。
約束の日は、すでに明日にせまっている。
誰にも言ってはいない。
むやみに周りに言いまわっても、混乱が生じるだけだし、おそらく無駄な犠牲者が出るだけだろう。
それだけは避けねばならない。
それに、なによりも――半蔵の姿として「半蔵が悪」だと思われるのが、耐えられないのだ。
「馬鹿だな、今更だろ」
「そうですね、今更でした」
静かな夜だった。
これが最後の夜だと、思ってはいない。
不思議と、おもわない。
負けないという絶対的な自信があるわけでもない。
ただ、日常が続いていくことが、当たり前なのだと。
そんな甘い考えがあるのかもしれない。
そんな筈はないというのに。
これが最後の夜かもしれない。
これが、最後に見る月なのかもしれない。
「倫之助」
「はい」
「俺が、おまえを死なせない。おまえを守ってみせる」
「……口説いてます?」
「おまえを手懐けるのに必死なんだよ、こっちは」
軽口をたたけるまでになっている。
一彦はそっと息をついて、倫之助を真似るように月を見上げた。
今日の月は、半分欠けていた。
「なかなか懐かねぇからなあ、おまえは」
「そうでしょうか」
「そうだよ」
「望んだらそのぶん失望が待ってると思うと、怖いですから」
「前も言ってたな、そんなこと。でも、理由が違った」
怖いとは、言ってはいなかった。
「望んでも、いいんじゃないのか。少しくらい。望むから、ひとは努力できる。まあ、怖がるなとは言わないが」
「なるほど」
「そう感心するもんでもないが」
すこしだけ、笑ってやる。
穏やかだった。
凪いだ海のように。
「そろそろ、寝ようぜ。あんまり夜更かしする日でもねぇ」
「――そうですね」
倫之助は顎を引いて、屋上に背を向けた。
「伝えたいことがあります。もし、明後日があったら」
「あるさ」
月を見上げたままの一彦は、そっと呟いた。
辛いことがあった。
悲しいこともあった。
痛むこともあった。
それでも、明日を生きようとしている。
そんな命を、死なせることはできない。
ただ、単純に守りたい、と思った。
屋上には、もう倫之助の姿はなかった。
夢をみた。
幼い頃、半蔵との夢だ。
月を指さして、笑っていた。
倫之助は、ぼんやりとそれを見上げていた。
すこしは笑うべきだっただろうか。
そう思うほど、客観的だった。
「俺、月が好きなんですよ。坊ちゃん」
「?」
「だって、きれいじゃないですか。単純に。きっと、月が嫌いな人なんていないんじゃないですか?」
「分かんないよ、そんなこと。嫌いな人だっているかもしれない」
「まあ、それはそれで。俺は服部の家のことなんて知らないですけど、でも坊ちゃんのことだけは大事なんです。だから、知っていてください。あなたのことを大切に思っている人間がいるってことを」
「……うん」
あのとき倫之助は、自分という存在の意味を探していた。
だからこそ、あのときの、やさしい半蔵のことばの本当の意味を知らなかった。
知ろうと、しなかった。
悔やまれる。
けれど半蔵は、きっとそれすら知っていたのだろう。
知っていて、真実だけを倫之助に送っていた。
言葉という、その時だけで消えてしまう、それでもこころのの奥で生き続ける、儚く、強いもの。
「坊ちゃん。俺がどんな姿になっても、あなたを大切に思っています」
目を開ける。
半蔵は、笑っていた。
幸福そうに。
「半蔵。おまえは今でも、そう思ってくれているのか」
誰もいない部屋。
時計をみる。
そろそろ、行かなければいけない。
ベッドから起き上がる。
「坊ちゃん」
月のような声。
それは幻だということを知っている。
それでも、その声にこたえてしまった。
「――半蔵?」
「俺は、どんな姿になっても、あなたのそばに」
声を。
声を聴きたかった。
言葉を。
言葉を聞きたかった。
その声は、空気に溶けるように消えていった。
「おまえがそう言ってくれるなら、なにも怖いことなんて、ない」
ふっと、静かにやさしく笑ったような、気配がした。
それも、すぐに消えてしまった。
けれど、その言葉も、気配も、倫之助の力となる。
月並みだがこころからそう思う。
こぶしを握り締める。
そして、部屋を出た。
ビルのロビーに入る。
そこにはすでに一彦がいた。
「早いですね」
「信じてなかったわけじゃないんだが。まあ、一応な。待ち伏せってやつだ」
「信用されてないんですね、俺」
「悪かったって」
ロビーを出ると、照らす朝日に目を細める。
駐車場にむかい、車に乗り込む。
言葉はあまり、なかった。緊張しているのかもしれないし、言葉など必要ないと思っているが故なのかもしれない。
「行くぞ」
「――はい」




