10
管のついた、手の甲にふれる。
ひどく冷たかった。
ここはあたたかいはずなのに。
「……それは、あなただったからです」
かすれた声が聞こえ、半蔵の顔を見下ろした。
目は閉じられたまま、今まで聞いたことのない程の弱弱しい声に、思わず目を細める。
「俺は……生きる意味を見失っていました。けど、あなたがいたから、俺は意味を見つけられた。意味を探していたのは、あなただけじゃない……。俺も、そうだった」
「……そうか」
「坊ちゃん。あなたはひとりではありません。どうか、それだけは忘れないでください。あなたに孤独はおとずれない。たとえ、どんなことがあっても、あなたは決して……」
ひとりではない。
それは、半蔵がいたからだ。
半蔵がいたから、ひとりではなかった。そんなことは分かっていた。
けれど、おそらく半蔵はもう助からないということを知っているから、告げたのだ。
「坊ちゃん」
かすれた、それでも意思を持った声。
呼吸器がかすかに曇る。
「俺は、すこしだけ後悔しています。俺が、あなたを殺すという約束をしてしまったことに。本当は、そんなことできるはずないのに。約束は守るものです。けど、俺は破ってしまった。でも、あなたを生かすためなら、約束さえも破ることができる……。坊ちゃん。だから、生きてください。幸せになってください。どうか、……どう、か……」
半蔵の声が徐々に弱弱しくなっていく。
心電図の音が少し、乱れる。
足音が聞こえる。
「半蔵」
呼吸が乱れている半蔵にはもう、聞こえていないかもしれない。
けれど、倫之助は伝えたかった。
「おまえがいたから、俺は今まで世界に絶望せずにいられた。ひとりきりにならなくてすんだ。すべて、おまえのおかげだ……」
扉が開く。
医者と看護師が、何かを叫んでいる。
倫之助はそのあまり広くない部屋から廊下へ追い出された。
「……正成……」
服部の隠居は、顔をゆがませて、扉が閉まった病室を見つめている。
おそらく、もう助からないことを分かっているのだろう。
最初は、信じていたのかもしれない。
それでも、もうだめなのだと。時間がそうさせたのかもしれないし、病院の独特な空気がそうさせたのかもしれない。
「ご家族の方は……」
医者が、声をひそめて病室から出てきた。
それに続けて、看護師も出てくる。
「……正成は……もう」
「――残念です。力は尽くしたのですが……」
保永と隠居は、足を引きずるようにして病室に入っていく。
それを、じっと一彦と倫之助は見つめていた。
「……半蔵は」
一彦は相槌もなにもうたずに、倫之助の言葉を促した。
「半蔵は、俺に生きろ、と、幸せになれ、と言ってくれました。だから、俺は死なない。最後まで生きます。誰よりも、俺のことを思ってくれた半蔵の願いを、必ずかなえてみせます……」
倫之助は白いうなじを見せて、うつむいている。
あの時。
あの時半蔵を止めていたら、こうなることはなかっただろうか。
だが、こんなことを思うのは無意味だ。
すべてが半蔵の意思なのだから。
半蔵が決めたことを、その意志を覆すことなど、あの時できなかった。
あの、倫之助にしかむけないような、慈愛に満ちたほほえみ。
そこにふれられるのは、倫之助だけだ。一彦はそこに触れられない。そこには、いない。
「一彦さん」
「……ん?」
「カガチを殺した半蔵は、死ななければならなかった。けど、これで終わりではありません。カガチは、人類に呪いと怒りを遺した。……俺はそれを止めなければいけない。たとえ、その姿が半蔵であろうとも」
「やっぱり、これで終わりではなかったか」
うす暗い廊下でそう呟く。
一彦の手が、そっと倫之助の頭に置く。
慰めるなんて、ガラではない。けれど、いまの倫之助は崖の上に立つ、たったひとりの子どもだ。
「……半蔵は……」
くちびるをかみしめる音が聞こえてきそうなほどに、倫之助は今、脆い。
「……半蔵は、幸せだったのでしょうか」
「さあな。でも、幸せじゃなければ、悔いたりしないだろう」
それに、幸せではなければ、他人の幸福を願ったりしない。生きてほしいと強く願ったりしない。
半蔵は、そうだ。
死人に口なし。
けれど、半蔵は――幸福だったはずだ。
ひととひとは、他人だ。
そう、倫之助は言った。間違ってはいないだろう。
だが、半蔵は違ったはずだ。いや、そうだとしても、半蔵は自分のために、そして「倫之助のために」生きていた。
そんな男が、不幸だと言い切れることはできない。
ひとのために生きること。
それは、不幸なことなのだろうか。
それこそ、人それぞれだろう。
「……倫之助くん」
扉が開いて、出てきたのは保永だった。
顔色は青白く、ああ、逝ったのか、と理解した。
「あいつは……逝ったよ」
「――そう、ですか」
「最期まで」
保永は目を細めて倫之助を見据え、くちびるを開いた。
「最期まで、あいつは……きみの幸せを願っていたよ。もう、見えなかったんだろうな。きみが傍にいると思って、言っていた。俺や、父が何を言っても……倫之助くん。きみのことだけを想っていた。笑っていたよ。――笑えて逝けることは、俺は一番難しいことだと思っている。でも、正成はそれをした。きっと、幸せだったんだろうな。きみがいたから」
保永もどこか安堵したように、すこしだけ微笑んだ。




