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 管のついた、手の甲にふれる。

 ひどく冷たかった。

 ここはあたたかいはずなのに。


「……それは、あなただったからです」


 かすれた声が聞こえ、半蔵の顔を見下ろした。

 目は閉じられたまま、今まで聞いたことのない程の弱弱しい声に、思わず目を細める。


「俺は……生きる意味を見失っていました。けど、あなたがいたから、俺は意味を見つけられた。意味を探していたのは、あなただけじゃない……。俺も、そうだった」

「……そうか」

「坊ちゃん。あなたはひとりではありません。どうか、それだけは忘れないでください。あなたに孤独はおとずれない。たとえ、どんなことがあっても、あなたは決して……」


 ひとりではない。

 それは、半蔵がいたからだ。

 半蔵がいたから、ひとりではなかった。そんなことは分かっていた。


 けれど、おそらく半蔵はもう助からないということを知っているから、告げたのだ。


「坊ちゃん」


 かすれた、それでも意思を持った声。

 呼吸器がかすかに曇る。


「俺は、すこしだけ後悔しています。俺が、あなたを殺すという約束をしてしまったことに。本当は、そんなことできるはずないのに。約束は守るものです。けど、俺は破ってしまった。でも、あなたを生かすためなら、約束さえも破ることができる……。坊ちゃん。だから、生きてください。幸せになってください。どうか、……どう、か……」


 半蔵の声が徐々に弱弱しくなっていく。

 心電図の音が少し、乱れる。

 足音が聞こえる。


「半蔵」


 呼吸が乱れている半蔵にはもう、聞こえていないかもしれない。

 けれど、倫之助は伝えたかった。


「おまえがいたから、俺は今まで世界に絶望せずにいられた。ひとりきりにならなくてすんだ。すべて、おまえのおかげだ……」


 扉が開く。

 医者と看護師が、何かを叫んでいる。

 倫之助はそのあまり広くない部屋から廊下へ追い出された。


「……正成……」


 服部の隠居は、顔をゆがませて、扉が閉まった病室を見つめている。

 おそらく、もう助からないことを分かっているのだろう。

 最初は、信じていたのかもしれない。

 それでも、もうだめなのだと。時間がそうさせたのかもしれないし、病院の独特な空気がそうさせたのかもしれない。


「ご家族の方は……」


 医者が、声をひそめて病室から出てきた。

 それに続けて、看護師も出てくる。


「……正成は……もう」

「――残念です。力は尽くしたのですが……」


 保永と隠居は、足を引きずるようにして病室に入っていく。

 それを、じっと一彦と倫之助は見つめていた。


「……半蔵は」


 一彦は相槌もなにもうたずに、倫之助の言葉を促した。


「半蔵は、俺に生きろ、と、幸せになれ、と言ってくれました。だから、俺は死なない。最後まで生きます。誰よりも、俺のことを思ってくれた半蔵の願いを、必ずかなえてみせます……」




 倫之助は白いうなじを見せて、うつむいている。


 あの時。

 あの時半蔵を止めていたら、こうなることはなかっただろうか。

 だが、こんなことを思うのは無意味だ。


 すべてが半蔵の意思なのだから。


 半蔵が決めたことを、その意志を覆すことなど、あの時できなかった。

 あの、倫之助にしかむけないような、慈愛に満ちたほほえみ。

 そこにふれられるのは、倫之助だけだ。一彦はそこに触れられない。そこには、いない。


「一彦さん」

「……ん?」

「カガチを殺した半蔵は、死ななければならなかった。けど、これで終わりではありません。カガチは、人類に呪いと怒りを遺した。……俺はそれを止めなければいけない。たとえ、その姿が半蔵であろうとも(・・・・・・・・)

「やっぱり、これで終わりではなかったか」


 うす暗い廊下でそう呟く。

 一彦の手が、そっと倫之助の頭に置く。

 慰めるなんて、ガラではない。けれど、いまの倫之助は崖の上に立つ、たったひとりの子どもだ。

 

「……半蔵は……」


 くちびるをかみしめる音が聞こえてきそうなほどに、倫之助は今、脆い。


「……半蔵は、幸せだったのでしょうか」

「さあな。でも、幸せじゃなければ、悔いたりしないだろう」


 それに、幸せではなければ、他人の幸福を願ったりしない。生きてほしいと強く願ったりしない。

 半蔵は、そうだ。

 死人に口なし。

 けれど、半蔵は――幸福だったはずだ。

 ひととひとは、他人だ。

 そう、倫之助は言った。間違ってはいないだろう。

 だが、半蔵は違ったはずだ。いや、そう(・・)だとしても、半蔵は自分のために、そして「倫之助のために」生きていた。

 そんな男が、不幸だと言い切れることはできない。

 ひとのために生きること。

 それは、不幸なことなのだろうか。

 それこそ、人それぞれだろう。

 

「……倫之助くん」


 扉が開いて、出てきたのは保永だった。

 顔色は青白く、ああ、逝ったのか、と理解した。


「あいつは……逝ったよ」

「――そう、ですか」

「最期まで」


 保永は目を細めて倫之助を見据え、くちびるを開いた。


「最期まで、あいつは……きみの幸せを願っていたよ。もう、見えなかったんだろうな。きみが傍にいると思って、言っていた。俺や、父が何を言っても……倫之助くん。きみのことだけを想っていた。笑っていたよ。――笑えて逝けることは、俺は一番難しいことだと思っている。でも、正成はそれをした。きっと、幸せだったんだろうな。きみがいたから」


 保永もどこか安堵したように、すこしだけ微笑んだ。

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