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おおよそ100キロ、というと、車で行けばそこまで遠くはなかった。
まだ夜は終わっていなかったが、東京は明るかった。
ここまで送り届けてくれた男性に、礼を言う。
「ありがとうございます。本当に」
「いいんだよ。きみはどこか、息子に似ている。だからかな。東京にいるんだ。息子は」
「そうだったんですか」
「ああ。けど、帰るよ。女房が待っているし」
「はい」
「じゃあな。元気で」
「ありがとうございました」
軽トラは、そのまま来た道を引き返していった。
そのテールランプを倫之助はしばらく見つめて、見えなくなると、明るい道路へと足を踏み出した。
ここからあの海岸まではタクシーで行くことにする。
その前に、機関のビルに行かなくてはならない。
たしか、スペアの眼鏡があったはずだ。それに、何かがわかるかもしれない。半蔵のことも、一彦のことも、そして――あの男のことも。
ただ、ひたすら歩く。
男性が住んでいたY町より、比べ物にならないほど明るい道を。
視界がぼんやりとしているせいで、時折なにかにぶつかったりしたが、それは人間ではないことは分かった。
大体がごみ袋か、電柱だ。
無機物だから、謝る必要性もない。
冷たい風がほおを通っていく。
ずっと背負っていた、背中のカガチがいない。
それだけで、体は軽かった。
だが、その代償はきっと、重いものだろう。
機関のビルは、今まで通り、ところどころ電気がついていた。
蘇芳エーリクがどうなったのか分からない。
覚えているのは、御堂をけしかけたあたりだ。
「倫之助!!」
その声は、聞きなじみのある声だった。
「……一彦さん?」
息を切らせて走ってきたのは、まぎれもない、造龍寺一彦だった。
「こっちだ。半蔵が待っている」
有無を言わさず手首をつかまれ、向かった先は駐車場で、車に押し込まれるように助手席に座った。
「……半蔵は……」
「危険な状態だ」
倫之助が訊ねることを分かっていたのか、はっきりと、そう告げた。
一彦はアクセルを思い切り踏み、駐車場を抜けた。
向かう先は問うまでもない、病院だろう。
車中では、言葉はなかった。
ただ、ぴんと張り詰めた空気が流れていた。
その意味を、倫之助は知っている。
あの男の声。
服部家の末裔が、カガチを焼き尽くした。――殺したのだ、という事実。
そして、あの男の声が生まれた。
怒りとして。呪いとして。
あの声は、半蔵だった。
カガチの怒り、呪い。それを倫之助のかわりに一身に受けた、服部半蔵正成。
ああ、と思う。
半蔵は、倫之助との約束を破ったのだ。
カガチに飲み込まれるのは、本当は倫之助だった。
彼女に見放されたのだ、当たり前の結末だっただろう。
それでも、半蔵は――それを知ってなお、主を生かそうとした。
目を閉じる。
暗闇がおとずれた。
助けられてしまったなら、どうすればいいのか。
「倫之助」
赤信号で止まった車のなかで、一彦はぽつりとつぶやいた。
「俺には何のことかは分からねぇが、半蔵は……どうしてあんな約束をしてしまったのか、と笑っていたよ」
「……そう、ですか」
悔いていたのは、倫之助ではなかった。半蔵だったのだ。
「何も間違えないってことは、難しいことだ。人間は、間違えて、悔いる。そういう生き物だ」
「俺は……」
「おまえは人間じゃねぇかもしれない。だが、託されたんだよ。おまえに。だから、間違えるな。そのあとのことを」
青信号になる。
車が動き出して、やがて病院につくまで、もう口を開くことはなかった。
病院の裏口から入り、半蔵がいる病室へ向かう。
うす暗い、リノリウムの廊下。
不安感をかきたてられる、静寂。
「ああ……沢瀉の」
病室の前に立っていたのは、すでに隠居した、半蔵の父親だった。
そして、隣には見覚えのない顔をした男性が立っている。
「あなたは……」
「おそらく、初めてお会いする。服部半蔵保永だ」
「そうですか。あなたが、半蔵……正成の」
彼は、半蔵正成と兄弟であることを強く示しているように、よく似ていた。
「沢瀉の。正成に会ってやってくれないか。今……意識は失っているようだが」
「……俺を……」
白いドアの病室。
それを見上げて、呟く。
「憎んではいませんか」
「憎んでなどいるものか。正成が選んだ主を、正成が憎むこともない。誰も、君を憎むはずもない」
ぐっとくちびるをかみしめる。
そして、そっと背中を押したのは、一彦だった。
正直に言えば、恐ろしかった。半蔵と会うことが。
それでも、これは義務だ。
半蔵の主は、倫之助なのだから。
ドアを、ゆっくりと引く。
あまり大きくはない部屋に、いろいろな機材にチューブでつながれている半蔵の姿がそこにあった。
ドアから手を放し、ベッドに近寄る。
「半蔵……おまえは、やっぱり馬鹿だな……」
備え付けてあったパイプ椅子に座る。心電図の音が部屋に響いていた。
「だが、愚かじゃない。それは、おそらく大事なことだ」
返事がこないことは、分かっている。
「人を救うことを体現できる人間は、そうそういない。けど、おまえは俺を助けた」
半蔵は瞼を閉じて、ぴくりとも動かない。
だが、倫之助はかまわず続ける。
「おまえは、どうして俺を選んだ? どうして、主にした? 父ではなく、俺に」
父を主にしていれば、(いや、実際は父が本当の主なのだが)こんなことにはならなかったはず。
そんなこと、分かっていただろう。
いや、分かっていたはずだ。
父の実子ではない、ただのわけのわからない子どもをここまで面倒を見ること自体が、おかしいことなのだ。




