3
純粋な黒ではない。
いろいろな色を塗りたくったような、混沌の色。
それが、雛田馨から漂ってくる。
そう。
雛田馨の姿が見えないまで。
「……こいつは、違う」
「違う?」
「人間が持つべき空気をしていない」
一彦は警戒したように、馨から距離をとる。
潮風がほおを叩く。アカシアの強く木がゆれた。
「あら、敏感な方ね。私は、そう。もうヒトであるべきものではない。ヒトよりも、もっと上位の存在」
「……蘇芳か?」
「………」
彼女は微笑んだまま、何も語らなかった。
沈黙は是、というわけでもなさそうだ。
おそらくヒトならざるものから、何らかの接触があったのだろう。
「蛇……」
倫之助の言葉に馨は、ぴくり、と眉をひそめた。
「カガチ……?」
「知らなかった方がおかしい。きみは、あまり彼女から信頼されていないようだね」
「……やはり、そうなのね。おまえは、彼女に選ばれた化物」
「俺はただの観測者だよ。選ばれるとか、そういうことじゃない。元々そうだった。彼女は人間を選ばない。俺が最初から人間ではなかったように。きみは、ただの駒だ。俺を、屠るための」
カガチは、倫之助を見放すだろう。おそらく、だが。
彼女が倫之助を見放せば、彼自身、どうなるか分からない。
実際、倫之助は輪廻の輪の中心である存在だ。
何度も何度も、生きては死に、死んでは生まれ変わった。
思いだしたのだ。
倫之助の身体は決して、不老ではない。
「寿命」がある。
ただ、外傷で死なないだけだ。
馨のくちびるがゆがむ。
「私は、おまえなんかよりも上よ。人間を捨て去っておまえを越えてみせる。私は誓ったのよ。あの日、おまえに助けられて、無力を味わった。これ以上ないくらい、惨めだった。誰かに助けられるなんて」
「……覚えていたんだ」
「私の風彼此の力が反発したんでしょうね。でも、それはどうでもいいことよ。私にとって一番大事なのは、おまえよりも私のほうが上だってこと。それだけ」
「お前のような人間を知っているよ」
一彦が、ぼそりと呟く。ほとんど、風にのって消えかかっていたが。
「そいつは、自分の欲望だけのために人間を傷つけることにためらいがなかった。殺すことにも、ためらいもない。結果――自壊した」
「私は、そんな馬鹿な真似はしないわ。だって、私は人間を率いる存在だもの。殺すなんて、陰鬼かそこの化物だけで十分」
まるで詔を告げるように、彼女は言う。
馨は間違っている。だが、彼女自身は間違っていないと信じている。確信している。
狂ってはいないのだから。
「何故、そんなに倫之助に固執する? 倫之助よりも上だと、なぜそんなに信じたいんだ」
「あなたには分からないでしょうね。私の崇高な願いを」
「崇高ね……。それ、自分で言っていておかしいと思わないのか? そんなに自分が大事か。大切か。本当は、他の人間なんかどうでもいいと思っているお前が、崇高な願いだと? まったく、――腹が立つくらいおかしいな」
吐き捨てるように言った一彦は、その苛立ちを隠すように、スーツのポケットに手を入れた。
馨の表情は変わらない。
ただ、くちびるの端をゆるやかに上げているだけだ。
「私の崇高な願い……。それは、陰鬼どもを全滅させること。そして、それには力がいる。そこの化物よりも上の力が。おまえが死ななければ、人間たちの恐怖は本当に消えない。暗闇の中からじっと見つめられているような、そんな恐怖が」
馨の感情が増幅させられている。
以前、風彼此と陰鬼についての授業を放棄したとき、馨が倫之助を怒っていた時の面影はどこにもない。
あの頃はまだ、エリート意識の強い少女、というだけだった。
だが、今は――。
まるで、自らが救世主だとでもいうかのような、傲慢に満ちた少女に成り代わっている。
「倫之助。分かっているとは思うが、こいつは最初からそういう女だ。前はどうだったか知らねぇが。ただ、蘇芳にほんの少しだけ、背中を押されただけだろう。そのせいで、増幅されている。力もな。悪くも、精神と感情のタガが外れたせいで、風彼此の力も増大されている」
「だからこそ、その分折れやすい……」
ぼそり、と呟いた倫之助の手には、楊貴妃が握られていた。
「あら、さすが化物ね。私を殺す気?」
「殺さないよ。ただ、止めるだけ」
「止める? 私を? なぜ? ああ、でも、そうね。おまえのような化物も、命が惜しいものね。だから、対抗するんでしょう?」
でも無駄よ、と、彼女は彼女の風彼此を手にとった。
倫之助の楊貴妃の赤い刀身と相反して、不自然なほどに真っ白な刀身をした、日本刀。
彼女の風彼此は初めて見る。が、どこか違和感を感じた。
あまりにも、殺気があふれている。
それは、馨が本当に倫之助を殺そうとしている、というだけではない。
ここにいる、一彦をも殺すのもためらわない。そう感じるほどの殺気だ。
「いいわよ。おまえをここで殺してあげる。そして、私のほうが上なのだと、思い知らせてあげる」
「お前は本当に馬鹿だな」
一彦が呆れたように呟く。
馬鹿、という言葉に反応したのか、馨の表情がわずかに歪む。
「……馬鹿? なぜ? あなただって、恐ろしいでしょう? 人間を全滅させるような存在なのよ? それを殺して、なにが悪いの?」
「確かに倫之助は人間じゃない。だが、こいつは人間を殺せやしない。それをなにより恐れているからな。お前とは違う。それに、お前が目的じゃない。蘇芳と半蔵に会わないといけないんだよ。だから、そこをどけ」
「おまえも人間じゃないみたいね……。化物の味方をするなんて……。だから、殺す」
「一彦さん!」
セーラー服のスカートが、ふわりと風をふくむ。
そして、彼女の刀身は、ためらうことなく一彦へと向かっていた。




