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望んでいたとか望んでいなかったとか、そういうものは関係なかった。
生まれた意味など、どうでもいい。
いや、違う。
生まれる前から決まっていたのだ。
こうなることを。
だから、何もおかしいことなどなにもない。
「あなたには生きていてほしいのです。」
「あなたには生きて、幸せになってほしいのです。」
「誰よりも。」
「誰よりも。」
ぼんやりと目を覚ます。
誰かの夢をみた。
ただただ倫之助の幸福を願うやさしい声。
ああ、そうか。
(半蔵、おまえか。)
あなたにはその資格がある。
そう言って、彼の声は消えていった。
カーテンの隙間から、わずかに明るい光が漏れている。
「おはよう」
「おはよう……ございます」
すでに一彦は起きていたようだ。
そして何かに気づいたように倫之助の前に立った。
「嫌な夢でも見たか」
まだあたたかい指で、倫之助のほおに触れる。そこで初めて自分がいま泣いていることに気づいた。
「いえ……どちらかというといい夢です。でも、すこし苦しい。どうしていい夢なのに苦しくなるんでしょうか……」
「――幸せでも嬉しくても、苦しくなるときはある」
「そう、ですか……。幸せでも、嬉しくても……」
視界がゆがんでいる。
手の甲で乱暴にぬぐって、瞬きをする。名残の涙がほおを伝う。
「不思議ですね。人間は。泣くのは悲しいから、辛いからだと思っていました」
「……そうだな」
一彦の目が細められる。まるで、いとおしいものを見るような目をしている。
すぐに彼は目を逸らし、倫之助から離れた。
「朝飯食ってすこしたったら出るぞ。時間が惜しい」
「はい」
言葉少なに朝食をとり、早々に荷物をもって(とはいっても、財布とスマホだけだ。)ホテルのロビーに向かう。
地下にある駐車場へ向かう途中、空が見えた。
ひどく重たげに雲が空を覆っている。
世界が灰色だけになったように。
「降りそうだな。……急ぐぞ」
アクセルを思い切り踏んだ一彦のこめかみからは、かすかに汗がにじんでいる。
そして目も。
ひどく険しく目を細め、ずっと続く道を睨んでいた。
波が立つ。
白波が。
風が強く吹いている。
ほかの車は通らない。一彦が運転する車だけが、人工的な音を発している。
「……大丈夫ですか」
「ああ。もう、大体のめぼしはついている。おそらく、海の近くの……洞窟がある崖」
「洞窟……」
悪い予感がする。
洞窟。
あの、蛇がいる洞窟。何回か、訪ったことのある場所を一番最初に思いだした。
ぞっとする。
背中の痣が、氷のように冷たく冷えていく。
思わず前のめりになり、ぐっと歯を噛みしめた。
「倫之助? どうした」
「……いえ」
「具合が悪いならすこし停めるか?」
「大丈夫です。急がないと……。おそらくですが、そこにカガチがいる」
「――そうか。だからか……。これほどまでに見えないのは。蘇芳の力だけではないことが分かった」
体が冷たい。
冷たい海に突き落とされたようだ。
かちかち、と歯が鳴る。
寒い。
冷たい。指先までも。
これでは、楊貴妃を持てないかもしれない。
「倫之助」
心配そうな声。それでも、倫之助は大丈夫だと頷いてみせる。
今あの場所に行かなくては。
半蔵が――。
優しすぎたのだ。
半蔵は。
自分の幸せよりも、あるじの幸せを誰よりも願ってしまった男。
その先に、なにがあるのだろう。
倫之助には見えない。
なぜなら、半蔵は倫之助ではないから。
良くも悪くも他人なのだ。
けれど、他人だけではなかった。半蔵は。
半蔵の命を、心を、もらっていた。倫之助は。だから、生きてこられた。
――今度は、倫之助が半蔵に返す番だ。
ぐっと歯をかみしめる。前を見据え、冷えをしのぐように自分の手を握りしめた。
「……この辺りだな。大丈夫か、倫之助」
「はい」
車を停めたのは、見晴らしのいい道路の路肩だった。
ガードレールの先に崖がある。潮風があたる場所に、アカシアの木があった。
「――血のにおいがする……」
潮風のにおいにまぎれて、わずかに血のにおいがする。
「半蔵……」
「待て、倫之助」
倫之助の腕をつかみ、一彦が前に出た。
風にのって確かに血のにおいがする。それが蘇芳のものなのか、半蔵のものなのかそれとも――「ほかの誰か」のものなのか。
一彦の視線の先には、髪の長い少女の姿があった。
紫色のりぼんで髪の毛を結った、倫之助と同年代ほどの。
「……雛田さん?」
紺色のセーラー服の裾を風になびかせ、ただ悠然と立っているのは確かに雛田馨だった。
彼女はこちらに気づいて、にこり、とほほえんだ。
「こんにちは。沢瀉くん……いえ、陰鬼と同じくらい、危険な化物……と言ったほうがいいかしら」
「どっちでも。……雛田さん、どうしてこんなところに」
「どうでもいいでしょ。私は選ばれたの。五光班の班長――蘇芳さんに。きみには素質がある。力のない人間たちを統べるのはきみだ、って。力のない、非力な人間たちを率いることができるのは、きみだけだって」
彼女のことばは、歪んでいる。
今の倫之助ならばわかる。
彼女は――操られている。
言葉で縛られている。彼女の本当の心を増幅させているのだ。
蘇芳エーリクの力で。
けれど、もともとそう思っていたのだろう。自分こそが選ばれた人間なのだと。
非力な人間を救えるのは自分だけなのだと。
「……こいつは……」
一彦がつぶやく。
僅かに、嫌悪感をにじませていた。




