1
ホテルの窓から月が見えた。
夜の海と、その上に浮かぶ月。
ぼんやりと倫之助はそれを見上げていた。
完璧な丸さにはすこし足らない。
欠けている。
ほんの、すこし。
半蔵が言っていた。
この世界には、すべてに名前があるのだと。
まるで呪術的に行われてきたように、脈々と名前が続いている。
こころにも名前があるのだろうか?
だとしたら、これは――。
これは何という名がつくのだろう。
教えてほしい。
応えてほしい。
殆ど乾かしていない髪の毛から、ほつりと雫がカーペットに落ちた。
眼鏡をガラスでできたテーブルに置く。
たちまち霧がかかったような、ぼんやりとした世界に包まれた。
半蔵は――。
彼は、どこにいるのだろうか。
一彦が見えない場所にいる。それが唯一の手がかりだ。
明日には会えるだろうか。
「――会って、何を言いたいの?」
ふいに、女の声が聞こえてきた。
倫之助は視線を下げたまま、わずかな息を吐き出す。
「馬鹿な男。ヒトとしても、観測者としても不完全な存在。せめて観測者として育てたかったのに」
「育てる……?」
「私がどうしてキミの中にいると思う? 観測者として育て上げるため。でも、キミは駄目だった。観測者として、人間側に傾いている。それは不公平でしょう」
「……俺は陰鬼を敵とみなしている……」
「そう。でも、もう関係ない……。時は、もう止まらない。止まっていた時間が動き出すよ」
声は波が引くように静かに消えていった。
ため息をつく。
時間が動き出す。
止まっていた時が。
倫之助の芽吹いた心が、動き出す。
そういうことなのだろう。
「――倫之助? 誰かいるのか?」
「ああ、いえ、誰も」
ふいに一彦の声が聞こえてくる。すぐに肩にタオルを乗せた一彦がバスルームから出てきた。
「……そういうことにしておく」
「はい」
「だが、話してもいいって思ったときに、話してくれ」
「――はい」
おそらくだが一彦は分かっていたのだろう。ここに、ヒトならざる蛇がいたことを。
「明日、朝早く出るからな。だんだん分かってきた。半蔵が向かった場所が」
「蘇芳さんがいる場所と、同じなんですか」
「ああ、おそらくな。だが、まだ鉢合わせになっていない。明日。明日の昼くらいに、見つけられなければ……」
一彦はそこで口を閉ざした。
その沈黙で最後どうなるのか理解する。
なぜだろうか、どこに向かったのかも何をするために姿を消したのかもわからないというのに。
半蔵は何かを止めようとしている。
倫之助のために。ただ、主人を忠実に守るためだけに。
「……まあ、安心しろ。何としても見つけてみせる」
「なぜですか」
「ん?」
「なぜ、ここまで……」
「言っただろ。下心ありだからだって」
「正直な人ですね」
呆れたように笑ってみせる。
いや――笑えていたのか、実際は分からない。
ただ、不安だった。
「……半蔵は……」
ふいに思いだす。
月のなまえのことを。
月には、様々な名前があるということを。
「半蔵は月のなまえがいろいろあるって言いました。俺は、それが羨ましいと思ったんです」
「どうしてだ?」
「そうすれば意味はきっと、世界中に転がってる。そうすれば俺は目的を果たせる。意味を見つける、ということの目的を」
それでもそれはまだ見つからない。
けれど、それでいいと思っている。今は。自分の意味など、見つけてどうするというのだろう。
確かに何かが見えると思う。
自分の未来につながる何かになると思う。
それでも一彦は、半蔵は、今の倫之助を認めてくれた。
変わっても変わらなくてもいいと言ってくれた。
「でも今は違う。俺は、生きている。生きている限り、俺は俺にしかなれない。ほかの誰かにはなれない」
「――おまえの言うとおりだ。この世界のすべての人間は、他人にはなれないもんだからな」
一彦は倫之助のとなりに座り、煙草に火をつけた。
紫煙が天井に触れ、やがて消えていく。
「明日は早い。そろそろ寝とけ」
「……いえ、もう少しだけ」
起きています、と言おうとした。
けれど、それは一彦によってさえぎられてしまった。
くちづけで。
「……ん……っ!?」
煙草の、わずかな苦みのある味が舌に直に感じる。
倫之助の口内を一彦の舌がまさぐった。――執拗に。
どれほどそうしていただろう。
窒息しそうになったとき、ようやくくちびるが離れた。
「俺も、もう少ししたら寝るからもう寝ろ」
「……なんで」
唾液が顎をつたう。それを手の甲で強くぬぐった。
疑問を投げかける倫之助を、一彦は苦々しい表情をして、何かを言いよどむ。
「なんで、ってな。おまえは隙がありすぎだ。すこし、気をつけろ」
「……? どういう……」
「嫌じゃなかったか」
「慣れました」
「……慣れたって……おまえ、早いよ」
苦笑いをして、一彦は頭を掻いた。
倫之助はいま、嘘をついたことを知っていた。
ただの「照れ隠し」なのだということを。うぬぼれているのかもしれない。
一彦が倫之助にするくちづけは、きっとこれからも慣れることはないだろうから。
何をこの年になって青臭いことを、と思う。
自分でも強く感じる。
「ああ、もういい。朝起きれるなら、いくらでも起きてろ」
「……何を怒っているのか俺にはわかりませんが、分かりました」
「まったく、おまえは身の危険という言葉は知らないのか」
「身の危険? 俺は襲われるんですか?」
あのな、と顔を上げる。
倫之助はもう、どこか吹っ切れたようだった。
先ほどのような不安定さはない。
だから笑ってみせる。大丈夫だ、と。安心させるように。
「襲っていいんなら、襲うけどな。だがあいにく、明日は早い。……俺はもう寝る。一服できたからな」
「分かりました」
ソファから立ち上がって、一彦はベッドに体をうずめる。
ぱりっとしたシーツの冷たいにおいを感じた。
それから数分後、倫之助も隣のベッドにもぐりこんだ気配を感じた。
電気が、ふっと消える。
やがて、夜も更けていった。




