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「何があったんですか?」
警官に一彦がたずねると、彼はこの先に陰鬼が出たと言った。
「陰鬼? ああ、そうですか……」
「一般の方はここから先、通れませんので……」
「ご心配なく。俺たちは風彼此使いです」
「え、いや……それは」
警官は驚いたように目を見開いて、口ごもった。
一彦は、すでに知っていた。
――ここに陰鬼などいない、ということを。
いるのは、分からない。
見えないのだ。
黒い霧がかかったように。
好都合だった。
わざわざそちらから正体を現わしてくれるとは。
「通りますよ、いいですね」
「待ちなさい!」
一彦はためらわずにアクセルを踏んだ。警官の呼び止めもむなしく、倫之助を乗せた車はトンネル内に入り、やがて再び海の見える道へと出た。
「よかったんですか?」
「よかったんだよ。ありゃ、警察じゃない。蘇芳の手の者だ。つまり、政府関係者ってこと。ごく一部の、それも普通の公務員じゃない、裏のあるもんだ」
「裏……」
「ああ。なんにでも裏表があるように、日本のお偉いさんたちにも裏表があるってことだ。まあ、騙されているようだが」
蘇芳は、国のために何かをしようとしているが、――黒い霧の隙間から見えてきたものは、全く違ったものだ。
あの男は国を何とも思ってはいない。
結局は、自分自身のためなのだろう。
蘇芳の家のことはまだ、よく分からないが。
「……ここらで休憩するか」
警官らしき人物たちは追ってはこないようだった。所詮、わが身可愛さだったのだろう。この先に何があるか分かっているのだろうから。
休憩しようといった場所は、海辺だった。
どうせ規制されているのだから、車は来ないだろう、と路肩に停める。
目の前には海が広がっていた。
車から出て、無意識に背伸びをする。
潮風がわずかに運んでくるのは、ウミネコの鳴き声だった。
特徴的な声がかすかに聞こえてくる。
車に背中をあずけて煙草を吸っている一彦は、じっと海のむこうを見据えていた。すこし、睨むように。
倫之助も彼のとなりに立ち、海を見上げた。
「思いだすな」
「自死した子のことですか」
「ああ。あいつは弓絵って言ってな。霊媒体質だと伝えたことはなかったが、分かってたみたいだ。あなたは見えないものが見えて、聞こえないものが聞こえるのね、って。もちろん誤魔化したが、あいつはただ笑ってた。やさしい、笑顔だったな」
「………」
「まあ、死んだ奴はかえってこない。どんなに祈ろうと、どんなに願おうと。死んだらおわり、だからな。だから、おまえも死ぬな。俺が死ぬまでは」
携帯灰皿に煙草を押しつぶし、一彦は倫之助を見下ろした。
そして――わらった。
「……わかりました」
「それでいい。おまえは風彼此使いとしては、強い。だが、人間としてはまだヒヨッコだ。存分に頼ればいい」
新しい煙草を一彦は口に咥えた。
ジッポの銀色に輝くライターで、火をつける。
「純粋な、好意」
ぽつりとつぶやいたのは、倫之助だった。
紫煙をたゆらせながら、一彦は遠くを見たまま、そのことばを聞いていた。
「そうだな。少なくとも俺にはそんなものはない。そんなできた人間じゃねぇしな」
「あなたは俺に何を求めているんですか」
「どうしておまえにキスしたのか、教えてやろうか」
煙草を携帯灰皿に押しつぶし、車のボンネットに置く。
そして倫之助の腕をつかんだ。そのまま、抱きしめる。強く、強く。
呼吸が途切れそうなほどに。
「好きだからだよ。おまえが」
「………」
かすかな、ウミネコの鳴き声が聞こえてくる。
潮風にのせられて。
倫之助はゆっくりと瞬きをした。
好きだという想い。
感情。
感情が機械人形のように動き出す。
カタカタと音をたてて。
心臓が歯車でできているように、ぎし、ぎし、と動き出した。
「あなたは人間ではないものを、好きだというのですか」
「べつに人間じゃねぇから好きだってわけじゃない」
じゃあ、どうして。
その言葉は必要なかった。
いらなかった。
答えは分かりきっていた。
倫之助が、倫之助だっただけのこと――。
たった、それだけのこと。
「……見返りを求めるものなんだよ。人間ってのは」
ギブアンドテイクってやつだ、と倫之助の耳元で囁いた。
「あなたは、俺に何かをくれるんですか」
「おまえがくれたらな」
「俺には、あなたにあげられるものなんてひとつもない」
抜糸する以前の、深く染みついた痣のような痛みはもうどこにもなかった。
オレンジのにおいがしたあの時の痛み。苦しみ。辛さ。
それはどこにもなかった。
あたたかさだけがあった。
やわらかなぬくもりだけが。
「金やモノなんていらねぇよ」
「じゃあ何が欲しいんですか」
「倫之助」
「はい」
背中にまわされた手が、ブラックのパーカーをぎゅうっとつかむ。
まるで、迷子の幼い子どもが親に会えた時のように。
「おまえが欲しい。かわりに、俺をやる」
ラヴェンダーの香りが、かすかにかおる。
安らげる香りだ。
だれの香りだろう。
だれが、たずさえているのだろう。
「一彦さん」
ただ、その名前を呟く。
そして、すっと体を放された。
「休憩は終わりだ。行くぞ」
彼は、ずるい大人だ。
何も言わせてはくれない。
倫之助は、こくりと頷いて、助手席に乗った。
ことばは、なかった。




