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月牙の剣【本編完結済】  作者: イヲ
小望月
76/112

16

 抜糸は、すぐに終わった。

 完全に傷はふさがっていった。


「また実験をしたいのですが。傷も塞がりましたし」


 地下のリノリウムのロビーで、女性の研究職員が倫之助の顔色を窺うように尋ねた。

 

「いいえ。やめておきます」

「え」


 呆気にとられたのは、不愛想な女性職員だ。今まで従順だった実験体(モルモット)が、拒絶したのだから。

 倫之助は立ち上がって、自室に戻ろうとエレベーターに乗った。

 職員は追ってはこないようだ。


 それにしても、妙だ。

 このビルを包んでいた蘇芳の力が弱まっている気がする。


「……一彦さんなら何か知っているかもしれない」


 ぼそり、と呟いた言葉は、誰にも届かない。

 なぜなら居住区のロビーには誰もいないからだ。

 いつもなら誰かしらいるのだが。


 一彦の自室のドアをノックする。

 すぐに返事がきたが、声色が妙だった。どこか疲れているような。

 自室に入るとベッドの上に一彦が座っていた。


「――一彦さん?」

「ああ……」

「どうしたんですか」

「妙だと思わないか」

「やはりそうですか」

「――蘇芳の気配も、半蔵の気配もない。この世界から消えたような違和感だ」

「半蔵が……」


 やはり今ここに、蘇芳エーリクはいない。

 そして半蔵も。

 嫌な予感がする。

 半蔵は蘇芳の周りを調べると言っていた。

 そして、おそらくだが何かに気づいたのだ。倫之助に何も言わず、去った。

 もう半蔵が戻らないような気さえ、する。


 背筋が一気に冷たくなった。


「……どこに……」

「倫之助。早まるなよ。あいつらがどこにいるのかさえも分からないんだ」


 一彦はゆっくりと立ち上がり、倫之助を見下ろした。

 どこか決意をこめたような目で。


「いいか。倫之助。あいつは、半蔵は――戻ってくる。必ず。信じるのは俺よりもおまえのほうが適任だ」

「……なんとなく、分かっていました。いずれ半蔵は俺のそばを離れていくことを。いえ――俺が半蔵から離れたんでしょう。そして、それを半蔵は――」


 そうだ。

 半蔵は、それを喜んでくれた。

 こころが生まれたことを。


「半蔵は俺を助けてくれた。ずっと、そばにいてくれた……。だから決して、半蔵は何も言わず俺の前からいなくならない」

「そうだ。半蔵は戻ってくる」


 倫之助の目が、それでも――不安定にゆれている。

 だが、自分の意思で信じようとしているのだ。


「おまえ、強くなったな」

「そうでしょうか」

「信じることができるようになった」


 倫之助の頭をぐしゃり、と撫でる。

 その手はどこまでもあたたかい。

 やさしいぬくもりだ。一彦の手は、やさしい。その手に、その目に、力を宿していてもどこまでもやさしい。


 けれど、倫之助の手は――破壊しかない。

 人間を全滅させる力が、この背中の痣に渦巻いている。

 観測者として。すべてを蹂躙する殺戮者として。


 いやだ、と思う。

 殺したくない、と思う。

 このひとを。

 半蔵を。倫之助に優しくしてくれた人たちを。


 変わったと思う。

 変化した。

 しかし、そこに後悔はなかった。

 いや、全くないといえば嘘かもしれない。

 苦しみを覚えた。辛さを覚えた。

 それはやはりどこか息苦しさを感じた。


 深い海に沈むように。

 そこに酸素はない。

 ただ苦しさだけがあった。

 でも、そこには光もあったのだ。水面から注ぐ光が。

 倫之助はそれを見つけた。

 そして掴んだ。


「とはいえ倫之助。このままじっと待っているのも性に合わないだろ?」

「はい」

「俺が感じえることができない場所にいるということは、逆手に取ることもできる」

「……風彼此を使うんですか」

「いや……。胡散臭がれると思って言わなかったんだが、俺は霊媒体質でな。見えないものが見えたり、聞こえないものが聞こえたりする」

「そうだったんですか」


 倫之助は胡散臭がることもなく、ただ淡々と頷いた。


「どうせここには蘇芳もいないんだ。好きにやらせてもらおうぜ」

「そうですね。……一彦さん」

「どうした?」

「あなたは、どうしてそこまで」


 ふ、と笑った。

 いまさらだろう、と。


「半蔵とも約束したしな。それに何より俺がおまえの力になりたいと思う」

「……何の得にもならないのに」

「馬鹿だな」


 音がしそうなほどの静寂。

 一彦の表情はどこまでも優しい。

 どく、と胸の奥の、あるべきものが脈打つ。

 こころ、というものが。

 心がどこにあるのかなんて、倫之助にはわからない。

 どこにあろうと関係などないのだ。


「いいんだ。俺はおまえよりも大人だしな。子どもは素直に甘えていればいい」




「俺に見えないものはない」


 そう、車のハンドルを握っている一彦は呟いた。

 風の音でかき消されそうな程度の声だったが、倫之助の耳には届いていた。


「……?」

「そう思っている。だから見えないものを探せばいい」

「見たくないものでも見えるということですか」

「そりゃ、見たくないものなんてこの世界に山ほどある。だが、逃げられない」


 煙草を、車の灰皿に押しつぶす。

 煙はやがて儚く消えていった。


「逃げれば逃げる程、奴らは面白そうについて回るんだ。だから、世界が逆に見づらくなってな。昔はだいぶ苛められた」

「そう……なんですか」

「おう。だが、風彼此が使えるようになってからは何でか見えるようにはなったんだが。ま、好都合だったよ。今まで見えなかった世界が開けたんだ」

「きれいでしたか。この世界は」

「そうだなあ」


 わずかな沈黙のあと一彦は、ちら、と窓を見た。

 そこには蒼く、そして銀色の海が広がっていた。


「きれいなものも汚いものも見えた。でも、そんなことはどうだってよかったんだ。俺は、これからひねくれたりせずに、まっとうに生きられるんだって思ったんだからな」

「まっとうに生きる……」

「もちろん、俺はおまえの親じゃないから、まっとうに生きろ、なんて言わねぇよ。生き方に、ヒトの手出しはいらない。おまえなら、特にな……ん?」


 ふいに一彦が眉根を寄せる。

 側道のずっと先――そこに、警察が検問をはっていた。

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