15
「きみは、とても偉いね」
そう、蘇芳エーリクは言った。
対峙するのは、服部半蔵正成だった。
ここには、ビル群はない。
ただ、洞窟がある。
洞窟の入り口に、蘇芳は立っていた。
この洞窟のなかに入るべきではない存在。それが蘇芳エーリクだった。
「そして、賢い。まさに、服部半蔵正成の名にふさわしい存在だ」
「名のことなど、関係ない。俺は坊ちゃんのためにここにいるだけだ。お前はこの中に入るべき存在ではない。蘇芳エーリク」
「まあ、そうだろうね。でも、これは僕の意思ではない。この日本という国の存亡をかけた、選択だ。行くか、それとも行くまいか。国は――政府は、行け、と言った。それならば、僕はそれに従うだけだ」
三つ揃えの、グレーのスーツを着た男は、ゆるやかに笑ってみせた。
冷たい風が、吹きすさぶ。
ふたりの髪が乱れた。
蘇芳は髪の毛を掻き上げて、口の端をそうっとあげた。
「蘇芳家の歴史を知っているかい?」
「………」
「政府の傀儡として、延々と命を連ねてきたんだ。強大な力と引き換えにね。おかげで、蘇芳の家はみんな短命だ」
強大な力。
すべてを見通すような――そう、よくできた千里眼のような力だ。
蘇芳は感知型の風彼此使いではない。ただ、型にはまったような風彼此使いではないのだ。
言ってしまえば、「何でもあり」な力を持っている。
それは精神を、自我を、体を蝕み、やがて若くして死ぬ運命にあるという。
「不幸自慢はうんざりだ」
「まあ、そうだね。どうでもいいことだ。けれど、僕は僕の意思でこの洞窟に入りたいと思う。蘇芳家の終焉のために」
半蔵は、睨むように蘇芳を見据えた。
その手には、六連星が握られている。
終焉。
おわり。
蘇芳家の。
どういうことか、半蔵はすぐに分かった。
政府に反旗を翻すのだろう、と。
政府の傀儡である、蘇芳の血筋の終焉を望んでいるのだ。
「結局は、お前のためか」
「そうだね。人間なんて、自分のために生きるものだからね」
当たり前のように言う。
けれど、それを否定することはできない。
大体の人間が「そう」だからだ。
半蔵とて、人生のすべてを倫之助にささげているわけではないのだから。
倫之助がそばにいたから、――そう、結局は「自分のため」だ。
ただ、倫之助はちがった。
求めなかった。
自分のために、何かをしようとしなかった。
けれど、今はちがう。
今は――造龍寺がいる。
造龍寺がいたから、倫之助は自分の「こころ」というものを生み出せた。
そして、その為に生きることができるだろう。これから、きっと。
アカシアの木が揺れている。
わずかに。
「きみは、きみの命を投げうって、自分の主を守るんだね。それは愚かなことだ。ひとりの人間につき、命はひとつだけ。それを人類ではない存在に捧げるなんて、人間の可能性を捨てることと同意だ」
「――坊ちゃんがどんな存在だろうと関係ない。俺を初めて認めてくれた。それだけでいい。それだけで――俺は救われた」
「欲がないね、きみは。もっと、ないのかい? 何かが欲しいとか。たとえば――誰かの心、とかね」
半蔵は手に握りしめていた風彼此を、更に強く握った。
愛した人はいない。
恋をしたこともない。
倫之助という存在は、彼にとってあくまで「あるじ」であり、恋や愛といったものではないのだから。
「俺は服部家の次男だ。欲など、あってはならない」
「でも、きみは人間だ。人間は欲深いいきものだよ」
「なら、俺も人間じゃない。ただの――あのひとの影だ」
吐き捨てるように呟き、六連星の切っ先を蘇芳に向けた。
だが、蘇芳はいたずらをした子どもを見るような目で、半蔵を見据える。
仕方のない子どもを見るような目で。
「人間同士、風彼此での争いは禁止されているはずなんだけどね」
「お前がこの先に行かなければいい話だ」
「それはできないな。僕にも事情があるから」
「そうか。――風彼此をとれ。でなければ、俺はお前を殺す」
蘇芳は肩をすくめて、ため息をついた。
「それできみの気が晴れるなら」
「……俺は殺す気でいく。お前も殺す気でかかれ」
風の向きが変わった、気がする。
蘇芳の手に顕現したのは、レイピアの容を模した風彼此だった。
「これは瑞椿。僕の相棒だよ」
その瑞椿からは、黒いもやのようなものがにじんでいた。
思わずその姿に、眉をひそめる。
「ああ、この煙は気にしないでくれ。ただ、気をつけてくれよ。これに触れたら――本当に死んでしまうから」
「それでいい」
おそらくこの黒いもやのようなものが、蘇芳の力の根源なのだろう。
倫之助たちがいる、あのビルを覆いつくす力。それが瑞椿。確かに、あのビル全体を覆う力が、今、ここに集約しているのだから、触れれば蘇芳の言うとおり、触れれば気が狂って死ぬだろう。
だが、ここで負けるわけにはいかない。
蘇芳が野放しにされれば、それこそ倫之助がこの日本を滅ぼすことになりかねないのだから。
それさえ知っていて、蘇芳はやめない。
倫之助がこの世界に絶望すれば、蘇芳さえ死ぬのだ。
――だが、おそらく、だが――蘇芳は「死」を恐れていない。
死ぬことが、そう、短命だと分かっているからこその、死への思い。
メメント・モリ。
まさに、そういうことだ。
半蔵にも、譲れぬものがある。
倫之助に生きてほしい――。生きて、知ってほしい。
この世界には、愚かなものもいるけれど、やさしいものなのだ、と――。




