12
ほとんど気を失うように、倫之助は眠った。
おそらく、もう朝になるまで起きはしないだろう。
一彦はため息をついて、倫之助の部屋から出た。
もう少し傍にいたかったのだが、やることができた。
彼はまっすぐに、赤い絨毯が敷き詰められた廊下へ向かう。
一彦が尋ねる先は、無論、蘇芳エーリクの部屋だ。彼も、知っているだろう。一彦が訪ねてくることを。
そして、何でもない顔をして尋ねるのだ。
「どうしたんだい」と。
「――蝶班の、班長がなにか?」
蘇芳エーリクの部屋の前には、ひとり、男の風彼此使いが立っていた。
見かけない顔だ。
護衛のつもりだろうか。
「仮だがな。蘇芳エーリクに会いたい。そこを通してもらえるか」
「アポは取っていますか?」
「とってねぇよ。そんなもん」
お決まりの文句に、一彦はすこしイラついた。
男は、「ではお会いさせるわけにはいきません」と、またお決まりの言葉を吐き出す。
「っ!」
「通せ、ってんだよ。そっちに理由がなくても、こっちには会う理由がある」
どん、と壁に襟をつかんで男を押さえつけた。
怯んだ男は、一彦の腕を掴んだが、びくともしない。
「騒がしいね? どうしたんだい」
扉をすんなり開けたのは、蘇芳エーリク自身だった。
やはり、来ることを知っていたのだ。そんな口ぶりだった。
「造龍寺君。放してくれないかな。彼は一応、仕事でやっていることだから」
「……蘇芳さん、あんた――」
「話はこちらで聞こうか。どうぞ、入って」
襟を乱暴に放し、エーリクの部屋に入る。いつ来ても、嫌味なほど立派な部屋だ。
革張りのソファに座るように促され、癪だが座った。
「倫之助君のことだね?」
「知ってんだったら話が早いな。ここのところ、陰鬼の出現率が高い。そんな中で倫之助に怪我を負わせて、なんの得がある?」
「なにも、風彼此使いは倫之助君だけじゃない」
「だが、大型の陰鬼の出現時には、必ず倫之助を出撃させている」
「そうだね。倫之助君は強いから。それに――彼はヒトではない」
一彦の黒い目が、エーリクをきつく睨んだ。
だが彼は意に介さず、にこりとほほえむ。それは、背筋がうずくような、気色の悪い笑みだった。
「彼には踏み台になってもらう。人類の、可能性へのね」
「ふざけるな!」
ローテーブルに激しく手をつき、エーリクを睨んだまま、一彦は叫ぶ。
エーリクは驚いたように目を瞬かせた。
なにを怒っているのか、本当に分かっていない顔だ。
「ふざけてなんかいないよ。だって、彼はヒトじゃない。観測者と言うべき存在だ。それが分かった時点で、利用しない手はないだろう?」
「倫之助にも、感情はある。あんた以上に真っ当な存在だ。あんな実験は金輪際、断らせてもらう」
「倫之助君が肯定しても? きみになんの権限があるんだい?」
「俺はあいつの相棒だ。相棒に、そんなことをさせられない。死ぬ可能性もある実験に、諸手を挙げて賛成などできるものか」
エーリクは背もたれに背をあずけて、足を組んだ。
仕方のない子どもを見るような目で、一彦を見つめる。
「陰鬼を全滅させたくはないのかい? きみは」
「陰鬼を全滅させるには、人間すべてを殺し尽くさなければならない」
「それは、本当のことかな?」
「糸巻ういが証明させた事実だ」
「そうだね――。確かにそうだ。でも、こういう仮説はどうかな。陰鬼の巣が、彼にあるとしたら」
「……陰鬼の巣?」
「100年前。時空を捻じ曲げる化物じみた風彼此使いが生まれたのは知っているね。けれどそれは、陰鬼が表向きになったからだ。だから、100年前というきりのいい単位ができている。でも、彼が存在しているのは、もっとずっと前――。陰鬼が誕生した時から存在したとしたら?」
昔話をたどるように、エーリクは語った。
陰鬼の巣、など、聞いたことがない。
けれど、彼が言っていることは突拍子のないことではなかった。
100年前以前にも、陰鬼は存在していた。
風彼此使いという存在が民衆に認知されることになったのが、100年前だというだけだ。
「それが本当ならば、彼は陰鬼の出生とつながっている。そう思うのは不思議なことではないと思うけれどね」
「それでも、倫之助は陰鬼を敵とみなしている。陰鬼の巣が倫之助であるはずがない」
「彼の記憶――幼い頃の記憶はあいまいだといった。それが単に忘れているだけだとしたら、それは断定できることはないだろう?」
「重要なのは昔じゃない。今、現在だ。あんたのおかげで、倫之助は利き腕をやられた。当分、風彼此も握ることができないだろうな。――あんたのせいで」
そう言った一彦は、どこか釈然としない、違和感を覚えるような感覚に陥った。
だが、自分が言ったことは正しい、と断言できる。
昔のことは変えられない。
いや、倫之助がもしも変えることができるとしても、それは一彦にとって、ただの贋物だ。
それ以外の何物でもない。
今、生きている。
それが一彦にとって、唯一の真実だからだ。
「おや、もう帰るのかい」
「………」
一彦はエーリクに一瞥もせず、ドアノブをひねった。
それから、エーリクは付け足すように、こう言った。
「利き腕がやられても、左腕があるだろう?」
と。
一彦は今までに感じたことのない怒りを感じた。
今にも、風彼此でこの男の利き腕を斬りつけたい――そう思うほどに。
ぎしっ、とドアノブがきしむ。
怒りを押しとどめて、せめてもの意趣返しに、ドアを叩き付けるように思い切り、閉めた。




