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月牙の剣【本編完結済】  作者: イヲ
小望月
71/112

11

 オレンジを切ってから、鈴衛はもう遅いからと言い、一彦の部屋から出ていった。


「俺も、自分の部屋に帰ります。ありがとうございました」


 何事もなかったかのように、倫之助はベッドから立ち上がる。


「何も言わないんだな」

「……何か言ってほしいんですか」


 倫之助の目は、どこか冷めていた。

 ぞっとするほど、うつくしい黄金色の目。


「どうしてあなたが俺にキスをしたのかなんて、分かりません。けど、あなたが今、そう言うのはとても卑怯です」


 ああ、そうだな。

 そう言う前に、倫之助は出ていった。


「卑怯か……。確かに、そうかもな」


 オレンジも、薬もそのまま。せめてそれだけでも届けたかったが、倫之助を追う勇気はどこにもなかった。

 いや、怖かった、というべきだろうか。


 ぎい、と音がする。ドアが開いた音だ。


「ああ……半蔵か」

「坊ちゃんはどこだ?」


 ノックをせずに部屋にあがりこんだことは、今はどうでもよかった。


「部屋に戻った」 

「そうか。なら、ちょうどいい」


 半蔵は椅子に座りこんだままの一彦の隣に立った。

 その表情からすると、あまりよい知らせではないようだ。


「大守家から連絡があったらしい。父からの伝言だが」

「服部花乃の?」

「ああ。蘇芳エーリクが坊ちゃんに行った行為は、政府からの要請だったと」

「なんだと!?」


 倫之助の正体が、政府に筒抜けになっていたということか。

 そして、エーリク独断でしたと思っていたことが政府直々の勅令だったとは。

 それよりも、なぜ政府は倫之助のことを知ったのだろうか。


「なぜ政府は、倫之助のことを……」

「それこそ、蘇芳エーリクがリークしたんだろう。真偽は定かではないがな」

「人道に反する、か。よく言うぜ。あの狐野郎が」

「……坊ちゃんが断らないという前提だったんだろう。坊ちゃんの性格もよく分かっている……」


 顔をゆがめ、拳をにぎりしめる半蔵は、氷雨にうたれているようだった。


「俺では、もう坊ちゃんの力には、なれない。いや……もともとなっていなかったのかもな」

「そりゃ、俺も同じだ。倫之助の力には、誰もなれない。もともとが違うんだ」

「だが、坊ちゃんはヒトの心を知った。ヒトの心に触れたからだ。それはお前じゃないのか? 造龍寺」

「さぁ……どうだかな」

「俺は蘇芳のことを探ってみるが、――造龍寺。坊ちゃんを頼む」


 大切な宝物を託すように、半蔵は一彦に倫之助を託した。

 それは、ある意味別れのようなものだった。

 倫之助と、半蔵の。


「ヘマ、するなよ。これで死に別れたらシャレにならん」

「服部半蔵正成の名を継いでいるんだ。忍ぶくらい、どうということはない。……キッチンのオレンジと薬、坊ちゃんに届けろ。逃げるな。坊ちゃんから」


 何ともないような笑みを浮かべたあと、半蔵は部屋を出ていった。


「逃げるな、か……。もっともだな、半蔵」


 三十を過ぎた男が、何を怖がっているのだろう。

 相手は、まだ10代の子どもだ。


 簡易キッチンに向かい、すこし乾燥し始めた皿の上に載ったオレンジと薬を持ち、倫之助の部屋へ向かった。


 隣の部屋だからか、あっけなく着く。

 ノックをする。

 だが、返事がない。いるのかもしれないし、いないのかもしれない。

 あの血まみれの腕だ、外には言ってはいないと思うが。

 そっとドアノブを回す。

 鍵はかかっていなかった。


「倫之助」


 名を呼ぶ。

 ベッドのほうから、わずかな衣擦れの音が聞こえた。

 一彦はそのまま後ろ手でドアをしめる。


 ベッドサイドには、チェストがある。そこに、赤い眼鏡が置いてあった。

 倫之助の身体は、ベッドの上に投げ出すように横たわっている。


「倫之助。せめて鈴衛が買ってきたものだけでも受け取ってくれ」

「……馬鹿ですね」


 眠っていなかったことが幸いして、すぐに返事が返ってきた。

 だるそうに起き上がった倫之助は、一彦を見もせずにチェストに置かれたオレンジを見つめた。


「あなたも俺も、救いようがない」

「そうだな」


 ベッドの上に座りこんだ倫之助の右腕には、もう三角巾はなかった。


「……大丈夫なのか。その腕」

「――まぁ」


 あいまいな返事。まだ痛むのだろう。当たり前だ。こんなに血まみれならば、何針も縫っているはずだ。


「別に、俺を心配をするために来たわけじゃないでしょう」

「ああ、まあな……。半蔵に言われたよ。お前から逃げるなってな」

「半蔵……半蔵は、どこにいるんですか?」

「蘇芳のまわりを探る、と言っていた」


 倫之助の表情がわずかに曇る。

 心配している、というわけではないだろう。

 心配ではなく、不安、という表情に近しい。


「今は半蔵のことはいいんだよ。逃げるなって話だ。俺はおまえから逃げない。だから、おまえも俺から逃げるな」

「……俺が、あなたから逃げていると……? そうですね。俺は確かにあなたから逃げている」


 黄金色の目が鈍く光る。

 スタンドライトに反射したのだ。


「怖い。あなたが。あなたの心が。あなたの言葉が」


 あなたの心と体が、俺を後悔させる。


 そう呟く。

 倫之助は一彦を恐ろしいという。


「けど、その手はやさしい。あたたかい」


 熱のせいか、朦朧とした言葉だった。

 それでも、一彦は感じる。

 この手で倫之助を慰められるのなら、いくらでも、と。

 だがそんなこと、彼は望んではいないだろう。


「……どうして、こんなに苦しいんだろう」


 朦朧とした意識のせいか、ほとんど言葉になっていなかった。

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