11
オレンジを切ってから、鈴衛はもう遅いからと言い、一彦の部屋から出ていった。
「俺も、自分の部屋に帰ります。ありがとうございました」
何事もなかったかのように、倫之助はベッドから立ち上がる。
「何も言わないんだな」
「……何か言ってほしいんですか」
倫之助の目は、どこか冷めていた。
ぞっとするほど、うつくしい黄金色の目。
「どうしてあなたが俺にキスをしたのかなんて、分かりません。けど、あなたが今、そう言うのはとても卑怯です」
ああ、そうだな。
そう言う前に、倫之助は出ていった。
「卑怯か……。確かに、そうかもな」
オレンジも、薬もそのまま。せめてそれだけでも届けたかったが、倫之助を追う勇気はどこにもなかった。
いや、怖かった、というべきだろうか。
ぎい、と音がする。ドアが開いた音だ。
「ああ……半蔵か」
「坊ちゃんはどこだ?」
ノックをせずに部屋にあがりこんだことは、今はどうでもよかった。
「部屋に戻った」
「そうか。なら、ちょうどいい」
半蔵は椅子に座りこんだままの一彦の隣に立った。
その表情からすると、あまりよい知らせではないようだ。
「大守家から連絡があったらしい。父からの伝言だが」
「服部花乃の?」
「ああ。蘇芳エーリクが坊ちゃんに行った行為は、政府からの要請だったと」
「なんだと!?」
倫之助の正体が、政府に筒抜けになっていたということか。
そして、エーリク独断でしたと思っていたことが政府直々の勅令だったとは。
それよりも、なぜ政府は倫之助のことを知ったのだろうか。
「なぜ政府は、倫之助のことを……」
「それこそ、蘇芳エーリクがリークしたんだろう。真偽は定かではないがな」
「人道に反する、か。よく言うぜ。あの狐野郎が」
「……坊ちゃんが断らないという前提だったんだろう。坊ちゃんの性格もよく分かっている……」
顔をゆがめ、拳をにぎりしめる半蔵は、氷雨にうたれているようだった。
「俺では、もう坊ちゃんの力には、なれない。いや……もともとなっていなかったのかもな」
「そりゃ、俺も同じだ。倫之助の力には、誰もなれない。もともとが違うんだ」
「だが、坊ちゃんはヒトの心を知った。ヒトの心に触れたからだ。それはお前じゃないのか? 造龍寺」
「さぁ……どうだかな」
「俺は蘇芳のことを探ってみるが、――造龍寺。坊ちゃんを頼む」
大切な宝物を託すように、半蔵は一彦に倫之助を託した。
それは、ある意味別れのようなものだった。
倫之助と、半蔵の。
「ヘマ、するなよ。これで死に別れたらシャレにならん」
「服部半蔵正成の名を継いでいるんだ。忍ぶくらい、どうということはない。……キッチンのオレンジと薬、坊ちゃんに届けろ。逃げるな。坊ちゃんから」
何ともないような笑みを浮かべたあと、半蔵は部屋を出ていった。
「逃げるな、か……。もっともだな、半蔵」
三十を過ぎた男が、何を怖がっているのだろう。
相手は、まだ10代の子どもだ。
簡易キッチンに向かい、すこし乾燥し始めた皿の上に載ったオレンジと薬を持ち、倫之助の部屋へ向かった。
隣の部屋だからか、あっけなく着く。
ノックをする。
だが、返事がない。いるのかもしれないし、いないのかもしれない。
あの血まみれの腕だ、外には言ってはいないと思うが。
そっとドアノブを回す。
鍵はかかっていなかった。
「倫之助」
名を呼ぶ。
ベッドのほうから、わずかな衣擦れの音が聞こえた。
一彦はそのまま後ろ手でドアをしめる。
ベッドサイドには、チェストがある。そこに、赤い眼鏡が置いてあった。
倫之助の身体は、ベッドの上に投げ出すように横たわっている。
「倫之助。せめて鈴衛が買ってきたものだけでも受け取ってくれ」
「……馬鹿ですね」
眠っていなかったことが幸いして、すぐに返事が返ってきた。
だるそうに起き上がった倫之助は、一彦を見もせずにチェストに置かれたオレンジを見つめた。
「あなたも俺も、救いようがない」
「そうだな」
ベッドの上に座りこんだ倫之助の右腕には、もう三角巾はなかった。
「……大丈夫なのか。その腕」
「――まぁ」
あいまいな返事。まだ痛むのだろう。当たり前だ。こんなに血まみれならば、何針も縫っているはずだ。
「別に、俺を心配をするために来たわけじゃないでしょう」
「ああ、まあな……。半蔵に言われたよ。お前から逃げるなってな」
「半蔵……半蔵は、どこにいるんですか?」
「蘇芳のまわりを探る、と言っていた」
倫之助の表情がわずかに曇る。
心配している、というわけではないだろう。
心配ではなく、不安、という表情に近しい。
「今は半蔵のことはいいんだよ。逃げるなって話だ。俺はおまえから逃げない。だから、おまえも俺から逃げるな」
「……俺が、あなたから逃げていると……? そうですね。俺は確かにあなたから逃げている」
黄金色の目が鈍く光る。
スタンドライトに反射したのだ。
「怖い。あなたが。あなたの心が。あなたの言葉が」
あなたの心と体が、俺を後悔させる。
そう呟く。
倫之助は一彦を恐ろしいという。
「けど、その手はやさしい。あたたかい」
熱のせいか、朦朧とした言葉だった。
それでも、一彦は感じる。
この手で倫之助を慰められるのなら、いくらでも、と。
だがそんなこと、彼は望んではいないだろう。
「……どうして、こんなに苦しいんだろう」
朦朧とした意識のせいか、ほとんど言葉になっていなかった。




