10
カガチは、この世に執着しないようにと言っていた。
だが、それは無理なことだと誰よりも知っていたのはカガチ自身なのかもしれない。
傷はもう痛まなかった。
ただ、熱かった。体中が。熱くて、指先から溶け出しそうだった。
意識が茫漠としたまま、ただ触れられた手を見下ろす。
あたたかかった。
この熱さのなかでも感じる、心地のよい体温。
「……一彦さん。俺は、正しかったのでしょうか……」
「どうだろうな。おまえが正しいと思うなら、それは正しいんだろうよ」
ふ、と息を吐く。
そうだ。
「そういうこと」は、自分で考えなければならないのか。ヒトという存在は。
なにも考えず、意味だけを求めていたころ。
それは幸福だったのだろうか。分からない。
半蔵が言っていた。すべては倫之助のものなのだと。倫之助が辛い、苦しいと感じたものも、それは誰のものでもない。自分だけのものなのだと。
すこしだけ長い前髪の奥の目。その目は、まっすぐに倫之助を見つめていた。
体中が熱いなか、頭のうしろのあたりが、すっと冷えていくのを感じる。
それはいやな冷たさではなかった。
どちらかといえば、熱すぎる体をやわらかく冷ましてくれるような、やさしい冷たさだった。
「おまえは、正しいと思わないのか? ひとのこころを持ったことが」
「いいえ」
それは、はっきりと思った。
意味だけを求めていたころの倫之助は生きていなかった。意味を知って、それからどうなるかなど、考えてもいなかった。
今はちがう。
生きている、と思う。
この人と一緒にいることの痛みも辛さも、生きているから感じることができるそのものだ。
「俺は後悔していません」
「じゃあ、それがおまえの正しさだ。生きることを選んだ、おまえの」
「生きることを選んだ……。そうです。意味だけ求めていた頃の俺とはもう、違う」
触れていた一彦の手の力が強まる。ひとの体温とは、こうも自分の体温とは違うのか、と理解した。
その力は優しかった。
「俺は変わったんですね。変化してしまった……。けど、観測者であることは変わらない。あなたを殺してしまうかもしれない、ということも変わらない」
「そうだな。おまえの使命は変わらない」
そっと顔をあげる。
眼鏡をかけていないからか、視界がぼんやりとしている。
(もし、人類に失望したら。)
頭をゆるく振る。
くら、とかすかな眩暈を感じた。一彦の手で体を支えられなければ、ベッドの上に倒れこんでいただろう。
「すみません……」
「気にするな」
倫之助の額に汗がにじんでいる。その汗で張り付いたあちこちはねている前髪を、指で払われた。
三角巾でつるされた右腕。
これでは、右利きの倫之助は風彼此は使えない。
かすかな不安。
ここで陰鬼が出現したら、おそらく蘇芳エーリクは倫之助に出動命令をくだすだろう。
実験をしたいのだ。
ヒトではない倫之助ならば、人道的という単語は当てはまらないのだから。
「大丈夫だ」
「え……?」
一彦が、まるで倫之助の心を見透かしたようにうなずいた。
「こんな状態じゃ、なにもできやしねぇ。あの男から出動命令がくだっても、俺がおまえを守ってみせるさ」
「……俺を守るなんて言うひと、初めて見ました」
「ま、確かに普通の状態じゃ、守らなくてもいいぐらい、おまえは強いからな。仕方ねぇ」
「別に守られたいというわけじゃないからいいんですけど」
すこしだけ笑う。
一彦もかすかにほほえんだ。
倫之助のほおに、そっと手を当てる。熱い、すこし湿ったほお。
何故だろう。
触れられても、もう怯えることはなかった。
そして、くちびるにくちづけられる。
静かなくちづけだった。
目は閉じなかった。
それでも、目の前は暗かった。一彦の手が倫之助の目を覆ったからだ。
彼は後悔をしないといった。
それならば、それでいい。
こんこん、と控えめにドアをノックする音がした。
目を覆った手と、左手を握っていた手が離れてゆく。一彦は立ち上がって、ドアを引いた。
わずかな冷気のおとない。
なぜキスをしたのだろう。呆然と思う。
そして、なぜ嫌ではなかったのだろう。
どうして、目を覆ったのだろう。
口許に指先を持っていく。触れても、かさかさになったくちびるがあっただけだった。
「倫之助くん。起きていてもう大丈夫なの?」
鈴衛の声が聞こえる。確か今日、パトロールに行くと言っていた。
さっぱりとしたショートカットの彼女は、心配そうに倫之助をのぞき込む。
「はい。もうあまり痛くありませんし。すこし、熱があるみたいですけど、それ以外は」
「じゃ、これ飲んで。コンビニで、オレンジと解熱剤買ってきたよ。何かおなかに入れないと薬、飲めないからね」
「……ありがとうございます」
手渡されたのはスポーツドリンクだった。そして、ビニル袋のなかに入っているのは、オレンジと薬。オレンジを切ってくる、と言って鈴衛は簡易キッチンに向かった。
椅子に座った一彦は、黙って彼女の背中を見ていた。
先刻のキスのことは何もしゃべらなかった。後悔している、とも、悪かった、とも言わなかった。
ただ、前髪の奥の目は、どこか戸惑っているようにも見えた。




