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「倫之助!!」
目をゆっくりと開ける。
ぼやけた視界は、眼鏡をはずしているからだろうか。
背中に触れるのは、ベッドだろうか。やわらかく感じる。
「……あ……」
かすれた声を受け止めたのは、一彦だった。心配そうに顔をのぞき込んでいる。
「俺……どうしたんですか」
「倒れたんだよ。しかも腕、血まみれだし。どうしたって聞きたいのは俺のほうだ」
血を流しすぎたのか、すこし頭がぼんやりとする。
一彦の声もどこか遠い。
「――倫之助。おまえ……」
廊下で倒れた倫之助を一彦の部屋に連れ込んだのが、1時間も前だ。
右腕を三角巾で包んだそこは、血でぬれていた。だが、今は乾き始めている。
傷口は見てはいないが、この出血量だ。かなり大きな傷口だろう。
一瞬、めまいを覚えた。
一体何が。
今日は陰鬼の気配はまったくないというのに。
怪我をする要素などどこにもない。
目を覚ました倫之助は血を出しすぎたのか、ぼうっとしている。
「これじゃ……風彼此握れないな……」
「倫之助……おまえ、少し休め。詳しくは聞かねぇから。今は」
「……ん」
なにかを呟いたのかもしれないが、言葉になっていなかった。ただ、目を伏せるようにして閉じただけだ。
かすかな呼吸音。
その薄い音は、今途切れても不思議ではないように、不確かなものだった。
「……何が……。陰鬼ではない。絶対に。全く感知できなかった……」
不安を隠すように、一彦はひとり、呟く。
椅子にすわって、青ざめた表情の倫之助を見下ろす。
半蔵は、倫之助の傷を見るなり廊下へ走って行ってしまった。
なにかに気づいたのだろう。
半蔵自身もひどい顔色をしていた。
そっと、傷がない左手にふれる。その手はひどく冷たかった。生きているのが不思議なほどの冷たさだ。
ぞっとする。
このまま目を覚まさないのではないか、と。
ぐっと手を握りしめる。徐々に氷のような冷たさから、ぬるく変化した。
「とすれば、人間の仕業か……」
それができる存在は、すぐに分かった。
蘇芳エーリク。
実際、この対陰鬼総合機関ビルの実権を握っているのは蘇芳エーリクだ。
あの男以外、考えられない。
「くそ……っ」
行き場のない怒りが、胸を焦がす。
じりじりとした熱いものが、喉を圧迫する。
ドアをノックしたのは誰だろうか。
小さな声で、兄さん、と声が聞こえてくる。鈴衛だろう。
手をそっと放す。
体がどこか重たい。椅子から立ち上がり、ドアを引く。やはり鈴衛だった。
彼女は、どこか深刻そうに眉を寄せている。
「聞いたよ。倫之助くんのこと」
「誰にだ」
「班長。班長と蘇芳さんが話してたの、聞いちゃった」
「……そうか」
「ひどい。人体実験じゃない。こんなの」
「入れ。他人に聞かせる話じゃねぇだろ」
「うん」
足音を消すように、鈴衛が部屋に入ってくる。そして、ベッドで横になっている倫之助を見て、そっと口を覆った。
血まみれの右腕。もう乾いてはいるが、かなりの出血量だったと理解したのだろう。
「……蘇芳さんは、もう倫之助くんをヒトとして見ていないんだね」
「お前、いつから知っていた?」
「さっき聞いた。でも、なんとなく分かってた。兄さんの血が流れているんだから、私にもなんとなく、分かるんだよ」
「すこしは、感知型の血が流れてるってわけか」
倫之助の頭が、枕をこする。
じんわりと、汗がにじみでていた。熱をおびてきたのかもしれない。
「兄さん。倫之助くん、熱出てきたみたい。タオルと冷たい水、用意してくるから待ってて」
「ああ」
熱を出ても青ざめているほおに、吸い寄せられるようにふれる。しっとりと汗ばんでいた。
その汗の冷たさに、目を細める。
ほおに触れたまま、顔の輪郭をなぞった。
首筋から、肩へと。
なぞるように触れる。
「……っ」
そこで、ぐっとくちびるを噛みしめた。おそらく倫之助は、こうなることを分かっていた。
拒絶することなく、ただ受け入れたのだろう。
それが、悔しい。
ドアが開く音がして手を放し、握りしめる。
「兄さん、タオル。絞って汗を拭いてあげて。私、スポーツドリンク買ってくる。どうせ常備してないでしょ」
「ああ、悪いな」
今は鈴衛の嫌味も聞こえなかった。それほど、動揺していた。
ふたたび鈴衛が出ていくと、固く絞られたタオルを倫之助の額にあてる。
その感触が嫌なのか、眉が寄った。
「倫之助」
自分でも情けないとわかる程、ささやかな声が出た。
汗がにじんでいるほおにタオルを当てる。
もう、だめだった。
タオルが手のなかから落ちたのも気づかないほどだった。
「……かず、ひこさん……?」
喉が渇き切ったような、かすれた声。
その声で我に返る。
「まだ、休んでろ」
「いえ……もう大丈夫です」
「馬鹿言うな。熱出てるんだぞ」
「そうですか……。けどすこしでも起きていないと」
つらいのは倫之助だ。
その倫之助が大丈夫だというのなら、と起き上がるのを手伝う。
背中に手を当てて、起き上がらせた。
「は……」
肩で呼吸をするように、倫之助がため息をつく。
その呼吸音がひどく熱っぽく感じた。
「大丈夫か?」
「はい。まあ、少しは痛みますけど」
「だろうな。――なあ、倫之助」
「はい」
すこしぼんやりとしているが、言葉は思ったよりもはっきりしていた。
「蘇芳エーリクだろ」
「……そうかもしれませんね。でも、いいんです。別に、させたければさせておけば」
「おまえが辛くなるだろ」
「辛くなんてありません。ただ」
息をのむのも苦しいのか、喉が緩慢に動くのを見た。
「あなたといたほうが、よっぽどつらい……」
「……倫之助」
目を伏せる。
膝の上に置いてある左手にふれる。その手がふるえ、倫之助の肩がかすかにすくんだ。
「俺は、ひとのこころを持ってしまった……」
黄金色の瞳が、ぐらりとゆれた。




