8
朝食をとったあと、蘇芳エーリクから呼び出しがかかった。
スニーカーが、赤いカーペットに沈む。
飴色のドアをノックすると、すぐに返事が返ってきた。
ドアノブを引く。
蘇芳エーリクが立って出迎えていた。
その表情は、今まで通り読めない。ただ、微笑みを浮かべている。
「やあ。いきなり呼び立ててすまないね」
「いえ」
「どうぞ。かけて」
エーリクは革張りのソファにかけるよう、促した。そのまま言われる通り、ソファに座る。
「きみに頼みたいことがあってね」
「……はあ」
「実験に付き合ってほしいんだ」
「実験?」
「医療班から聞いたんだ。きみの傷が一瞬で治ったということ。そして、やはりその身にカガチを宿しているということを」
暗に、実験体になれ、と言っているようだ。
大守花乃とおなじ思考の持ち主なのだろうか。いや、違う。エーリクは、倫之助を人間として見ていない。
だから間違っていない。
そう思っているのだろう。
エーリクの赤い目は、強要をしている。そう感じた。
「分かりました。具体的に何をすれば?」
「呑み込みが早くて助かるよ。とりあえず、地下5階に来てくれるかな。医療班と解析班が待っている」
何をすればいいのか、は答えてはくれなかった。言いづらい事なのだろう。それか断られたら困る、のどちらかだ。
地上10階にある五光班班長室からエレベーターに乗りこむ。エーリクも、無論ついてきていた。
「倫之助くん」
「はい」
「きみは、誰かに恋をしているかい?」
「恋……? いえ、別に」
「そうか。なら、いいんだけど」
エーリクは、知っていたのだろう。昨日の夜のことを。
だが、かすかに胸が痛んだことは知らないはずだ。心は、誰にも見えないはずだから。
エレベーターから降りると、眼鏡をかけた白衣の男性や、黒い髪の毛を後ろで縛った女性がエーリクと倫之助を待っていた。
「ご協力、感謝します」
「……こちらへ」
無口そうな男性に促される。その眼は、倫之助をうさんくさいものでも見るような目をしていた。
連れて行かれたのは、白い、大きな部屋。そして、鋼鉄の檻。その中から、ぎいぎいという聞きなれた声が聞こえる。
――陰鬼だ。
ごくごく小型の。
「これから陰鬼を放す」
「……」
「きみの血で、陰鬼は本当に死ぬのか実験したいんだ。すこし痛むだろうけど、風彼此は使わないようにね。きみの力だと、一瞬で切り殺されてしまうだろうから」
ああ、そうか。
やはり蘇芳エーリクも、同じなのだ。
嘘つきな大人。
人間ではないことを確信したから、人体実験ではないのだと、そう考えているのだろう。
それでも、倫之助は断らなかった。
別に、誰のためでもない。
心も痛まない。
泣くこともない。
「じゃあ、頼んだよ」
エーリクと解析班、医療班の人間は別の、防弾ガラス級の強靭さがあるであろう、ガラスの向こう側に移動した。
エーリクがリモコンのボタンを押すと、檻が開かれた。
人間の膝ほどの小型の陰鬼とはいえ、何もしなければヒトは死ぬ。
陰鬼の身体はまさに「鬼」の形をしていた。額から角が突き出て、黒い体をしている。餓鬼のような姿だ。
それはすぐに獲物を見つけた。
ぼんやりと立ちすくんでいる格好の獲物に、餓鬼は喜んで駆け寄ってくる。
鋭い爪を眼鏡のレンズごしに見た。
右腕に鋭い痛みが走る。爪で裂かれたのだ。血がほとばしる。陰鬼はそれをまともに受け、悲鳴をあげた。
人間の声が聞こえる。
隣の部屋からだ。
茫漠とした痛み。右腕を見る。かなり深く裂かれたようで、肉が見えていた。
血を受けた陰鬼は、もう死んでいた。泡を吹いて。
医療班の人間がパンチのようなもので素早く傷口を縫い、布を巻く。
けれど、彼らの顔はどこか不思議そうだった。
なぜかは分からないが、血がみるみる布を汚していく。
処理班の人間が、陰鬼の身体を処理していた。
「痛み止めを打ちますか。結構縫いましたが」
「……結構です。それほど痛みませんので」
エーリクと解析班は、熱心に録画していたであろう映像を見ている。倫之助に見向きもしない。
別に構わないのだが。
「実験はこれで終わりです。お疲れ様でした。抜糸は2週間後です。また、ご連絡します」
医療班の女性が、特に感情をこめずに頭をさげてくる。
心は痛まなかった。
ただ、腕だけが鈍い痛みを感じている。
エレベーターのボタンを押す。流石に階段を上ることはできなかった。
風彼此使いたちの居住区の廊下を歩く。すこし、視界がぼんやりとする。
血が流れすぎたのかもしれない。
黒い服を着た誰かが駆け寄ってくるのを見た。
「愚かとしか言いようがない」
目を開けると、あの岩窟の中だった。
緋色の振袖を着たカガチは、どこかイラついたように腕を組んでいた。
「何故、断らなかった」
「別に、いいだろ。命に係わるものでもないし」
「確かにそう。お前、痛いのがいいの?」
「痛いのは好きじゃないな」
黒々とした髪の毛は素のつややかさがある。灯篭の灯りに反射して、きらりと光った。
「あの男……蘇芳エーリクといったか。あの男の前では、私は出てこれない。押さえつける力があるようだ」
「押さえつける? カガチを?」
「そう。言えば、ヒトの潜在意識を見ることができて、その力で抑えることもできる。まあ、簡単に言えば人形師ってところだ」
「ヒトを操ることができるということか」
「そんなところだな。だが、あの時……。実験をもちかけたときは、あの男は力を使っていなかった。まあ、あの男のことだ。人道に反するとでもいうのだろう」
カガチは腕をほどき、岩に手を触れた。
奥には小さな祠がある。周りに幣がかけられていた。
「まあ、注意することだ。それと……キミのプライベートに口を出すことは野暮だと思うが、あまりこの世に執着しないことだね」
「……そうだな」
ふっと体が軽くなる。
誰かが呼んでいるのだ、と自覚した。




