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夢を見た。
蛇の夢を。よくは覚えていないが、あざ笑っていたように思う。
こんなに愚かしく、浅はかな自分をあざ笑うのは当然だとも思う。
目を開ける。
電気をつけなければまだ暗い部屋。
昨日は、夕飯を食べ損なってしまった。
けど、不思議と腹は減ってなかった。
そっと起き上がる。
リモコンで、電気をつける。
ぱっと明るい世界が広がって、思わず目を閉じた。いつものこと。
ただ、胸の痛みはまだ去ってくれてはいなかった。
半蔵の姿はどこにもなかった。
倫之助が眠るまでそばにいた半蔵は、もう跡形もなく消え去っていた。
シーツを爪でひっかく。皺がより、すこしだけ乱れた。
着替える。
黒のジーンズと、白いシャツ、黒いカーディガンに。
顔を洗い、呼吸を整える。
そこで初めて、今日の自分の顔を見た。
目のあたり。まだ、すこしだけ腫れていた。
あちこち跳ねている髪の毛で目を隠し、そのまま朝食をとるために、食堂へと向かった。
足を止める。
あのひとがいた。造龍寺一彦が。
いつも通り、よれよれの黒いスーツを着て、だるそうにうなじを掻いている。
「……」
声をかけるかどうか迷った。
半蔵が言った言葉がリフレインする。それは、あなただけのものだ、と。痛みも、辛さも、すべて。今、感じえることすべて、あなたのものだと。あなたがどうしたいか。何をしたいか。それを見つけてくださいと。
足を踏み出す。一彦に向かって。
まわりには誰もいない。
「一彦さん」
一彦の足が止まった。
「……ああ、倫之助か……」
ぼさぼさの髪の毛をそのままに、すこし長い前髪の奥の目が、細められる。
目はすこし、赤かった。
「悪いな。俺は後悔も言い訳もできねぇんだ」
「されたら困ります」
驚いたように、一彦は目を開いた。
そして、呆れたように笑う。まるで、何気ないいたずらをした子どもを見るような目で。
「おまえ、いい度胸してるよ」
「それはどうも」
「おはようー!」
ふいに、活発な女性の声が聞こえてきた。
久しぶりに聞く声だ。
「……鈴衛」
「なにさ、その顔」
「別に、何でもねぇよ。朝飯行くんだろ?」
「そう。そのあと、パトロール。うちの班長が何だかしらないけど張り切っててね」
「蝶班班長がいなくなったからじゃないのか」
「そうかもね。あの真っ二つになったビルの事件から、うちの班長張り切り始めてるから。倫之助くんも久しぶり。元気してた?」
「ええ」
ショートカットの髪の先が揺れる。
にっと笑った彼女は、じゃあねとそのまま通り過ぎていった。
「倫之助」
「はい」
「忘れたわけじゃねぇだろ」
「忘れられるわけがないでしょう。たった一晩しかたってないんですから」
一彦の横を通り過ぎようとしたとき、ぐっと腕を強い力で掴まれる。
あの百花王を振り回すことができる力だ。すこしだけ、腕が痛んだ。
「なんですか?」
「夜。俺の部屋に来てくれ」
それだけ言うと、一彦は腕から手を放し、ひとりで食堂へむかった。
倫之助の答えも聞かずに。
「……相変わらず、勝手な人……」
カーディガンのポケットに突っ込んでいたスマートフォンから、着信音が聞こえる。
何となしにその画面を見ると、見知らぬ番号だった。
無意識にその電話に出る。
「もしもし」
「私。雛田馨」
「雛田さん? ……何か用?」
「無駄よ。何もかも。あなたが化物なのは知ってる。でも、無駄なの。お前には何もない。何も残らない」
「……そうかもね。でも、雛田さん。雛田さんも同じようなものだよ。昇進願望があるのは大いに結構なことだけど。それは何のため?」
「私はお前より上だと証明するため」
「そんなくだらない事を本気にしているなら、それこそ何もない。あとには何も残らない。ヒトの記憶から、すぐに消える」
「あの時、私を助けたことを後悔させてあげる。私は風彼此使い。ヒトと相容れないものを殺す存在」
「そう。俺を殺す気なんだね」
「――ふふっ」
彼女は不気味に笑うと、電話を切った。
雛田馨の「殺気」は本物だった。
本気で倫之助を殺そうとしている。だが、突拍子のない話ではない。彼女は実際、成績はトップクラスだった。風彼此使いとして、本部が放っておかない人材だ。
おそらく、来年にはこの本部ビルに配属されるかもしれない。
だが――様子がおかしいのも真実だ。
陰鬼のにおいがする――。そう言った一彦の言葉を一蹴できない所以は、そこにあった。
何かを追求するあまり、蝶班班長だった「糸巻うい」の二の舞になるだろう。
倫之助としては、元クラスメイトだった人間に手を下すことはあまりしたくない。
それはつらいから、とか、かなしいから、とか、そういう「心」ではないのだが。
ただ、面倒なだけだ。
そう思うのは、接点があまりなかっただけ、というよりも、何の感情も抱かない、と言ったほうが正しいだろうか。
相手が、一彦ではないから。
心が、反応をしないから。
「……面倒くさいな……」
つぶやいた声に、応えるものは誰もいない。
ただ、スマートフォンの冷たく、硬質的な感触が手のなかにあるだけだった。




