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呼吸をする。
窓のない部屋を見渡す。
それはいつものこと。
ベッドに座り、ただ天井を見あげた。
長い前髪がうっとうしい。
額に前髪がふれる。そっと。
悪いことをした。
だが、後悔はしていない。
あの少年は自分の相棒だ。
けれどそれ以上だ。
いつからだろうか。
いつか、まだ蝶班があったころ「遠い」と感じた。
その違和感。
相棒ならば、背中を預けられる相手であってほしかった。
それだけでよかった。
プライベートに、ずかずかと足を踏み入れるべきではない。そう願った。そう考えた。
(そうだ。)
「相棒」とは、ただの免罪符にしか過ぎなかったのだ。
あの少年は「純粋な好意を無下にしたくない」といった。
そして、思い出した。
この子どものような少年を自分のものに、自分だけのものにしたい、と。
化物じみた思考を。
抱いたその体の体温は、あっけない程に壊れてしまった。
もう、この腕に染みついて離れないほどに。
ガラスが壊れるように、この腕に突き刺さった。
ベッドに体を預ける。
ぎし、とスプリングがきしむ音が聞こえる。
たすけて。
そう言った。迷い子のような目で。
その意味をまだ知らない自分は、ただ「いのちを助ける」と約束をした。
本当の意味は違ったのだろう。
痛んでいた。
あの少年は。倫之助は。
その痛みを救えなかったことだけが悔やまれる。
だが、自分の痛みは自分だけのものだ。それを他人に預けたり、あげたりすることはできない。
無意識にネクタイを緩める。
ふいに、あの「記憶」がよみがえる。
自死を選んだ少女。
鈴衛と共通の親友だった、彼女の魂はまだ、海の中をさまよっているのだろうか。
ひとの魂は感知できない。
それは感知特化の風彼此使いでも、それだけはできない。
だが、一彦は違った。
鈴衛以外、誰にも言ったことのない、ひとりだけの秘密を抱えていた。
人間の魂を感じることができる。
それはつらいことだった。
いわゆる「霊媒体質」とでも言えばいいのだろうか。
陰鬼に喰われた魂を、心を、記憶を、見ることができた。感じ取ることができた。
それだけではない。
陰鬼に触れた魂――生きている存在。
風彼此使いの心も見ることができた。
視線を感じないように、前髪を伸ばした。
黒いスーツは喪の証。
ずっと一彦は喪に服したままだろう。
忌明けはない。一彦には。
あの少女……。弓絵という名の少女は、一彦の目の前で崖から飛び降りた。
崖をのぞき込んでも彼女の身体はどこにもなかった。
ただ、声が聞こえた。
「わたしは食べられてしまった。」
「陰鬼に。魂を。心を。だから、死ななければ自由になれなかった。」
「ひとは、自由な生き物よ。」
「自由でなければいけないの。でも、一彦は気づいてくれたね。」
「わたしがわたしではないということを。」
「だから、ありがとう。」
一彦はその場に崩れ落ちた。
そう。
知っていた。
弓絵の様子がおかしいことを。
死の間際、彼女と距離を置いていたことを。
同じだった。
倫之助という少年は。
魂や心というものは誰でもひとつずつ、持っている。
だが倫之助と弓絵は違った。なかったのだ。
弓絵は後天的になくなり、倫之助は最初からなかった。そう思ったのは、黒く濁っていたからだ。
濁り、そこに「何があるのか」分からない。
そんな存在は初めてだった。
だからこそ、うすうす人間ではないのではないか、と考えるようになった。
それは一彦の予想通りだったのだが。
けれど、その予想はすこしだけ外れた。
最近の倫之助の様子がおかしかったのは、黒く濁ったものが徐々に――霧が晴れるように、心が見え始めたせいでもあったのかもしれない。
彼はひどく動揺していた。
痛みをともなっていた。
彼の心は、硝子のように見えた。叩けばすぐに割れてしまうような、もろい心。
それが沢瀉倫之助の心の正体だった。
「いや――。生まれたばかりだったのかもしれねぇな……」
ひとりごちる。
もとからあったわけではない。
生まれたのだ。心という「弱さ」が。
だから、泣いた。
だから、苦しんでいた。
その心を守りたい、と、そう思ってしまった。
彼の弱さを。そしてそのすべてを。
「……こりゃ、一生口を聞いてもらえねぇかもしれないな」
はは、と笑う。
自分でも乾いた笑声だと思うが実際、本当にそうなってしまうかもしれない。
それはただの言い訳だ。
あの夜。
居酒屋に連れて行ったとき。
言い訳という言葉を使うことこそが言い訳なのだと、一彦は理解した。
だから言い訳はしない。
後悔もしない。
どうしようもない愚か者だ。
そっと目を閉じる。
浮かんだのは、倫之助の涙だった。
心と同じような、ガラスのような、もろい涙。
あの少年を生まれたばかりの心をもつ倫之助を。
すべてを自分のものにしたい。
いつから倫之助を好きになったのかなど、どうでもよかった。
今は。
だが今思えば、最初からだったのかもしれない。
あの誰にも似ない、誰にも懐かない子どものような黄金色の目を見たときから。
何にも傷つかない。誰にも媚びない。
それは心がなかったからだ。
今思うとそう感じる。確かに。
けれど、心がなくとも――惹かれていた。
服部家の書庫で触れた手首。
あの体温が忘れられない。
これが恋だと悟ったのは、あの時が最初だったのだろう。
恋などと、青臭いものに触れるとは思ってもみなかった。
鈴衛に言ったら、きっと馬鹿にされるだろう。それか、失笑するか。
「はは……馬鹿だな、俺は」




