5
すまないな、と一彦は言った。
混乱している、と倫之助は思う。
それでも、一彦の体温はあたたかかった。
「……どうして」
「どうしてだろうな」
そっと呟く。
だが、一彦の声は確信しているようだった。
(半蔵。)
ふいに従順な、あの男の顔がうかんだ。
半蔵。
半蔵と、何度こうしただろう。何度、キスをしただろう。
おそらく、一彦は知っている。いや、絶対に知っている筈だ。
それなのに、一彦は。
どうして。
なぜ、これほどまでに胸が痛むのだろう。分からない。
「おまえは相棒だ。それは変わらない。だが、なぜだろうな……」
聞きたくない。
せめて、今抱きしめている男へ、体を預けないようにする。
手を握りしめた。
なぜか、ふるえている。
皮膚が破れそうなほどに握りしめ、ぐっと歯をも噛みしめた。
ぎし、と音がする。
「お前を抱きしめたいと思った」
「半蔵……」
噛みしめた歯。その力をゆるめると、あの男の名が出てきた。
きっと、今。
いま、違う男の名前を呼べば、放してくれると思った。
「馬鹿だな」
ふっと、ため息をつくような声が上から聞こえてくる。
(半蔵。俺は、どうすればいい。いや。ちがう。おまえはいつも、俺が選び取ったものを正しいという。)
(けど、俺はこれを正しいとは思わない。思ってはいけない。)
(たとえ。)
たとえ――?
たとえ、なんだ。
(俺は。俺は……。正しいことなんて、したことがなかった。)
(俺は人間ではない。けど、それを言い訳にしてはいないか。)
「半蔵の名前を出したって、俺は動揺なんかしねぇぞ。残念だったな」
からかっているわけではなかった。
ただ、いとけない子どもをあやすように、その手はあたたかかく、やさしい。
何も言えなかった。
う、と再び噛みしめた歯から悲鳴がもれた。
目が痛い。
喉が熱い。
ひどく胸が痛む。
感じたことのない痛みに、ひどく戸惑った。
「嫌だったら、突き飛ばせ。もう力、入れてねぇから」
「……」
握りしめた手をひらく。そして突き飛ばそうと、手を肩にあてる。
ガラスが心臓を傷つける程に、胸の奥深くが痛む。
ズタズタに切り裂かれ、形も残らないほどに、こころ、というものが痛めつけられる。
痛かった。
ただただ、胸が痛かった。
「――たすけて」
自分がだれかに助けを求めることなんて、なかった。
けれど、するり、とそれは出てきた。
自分でもひどく動揺する。なぜ、そんな女々しいことを言ってしまったのだろう。
「ああ。俺は、おまえを殺させない」
たとえ化物であっても。
たとえ半蔵と約定を果たしたとしても、誰にも殺させないという。
「おまえが誰を好きでもいい。誰を想っていてもいい」
それだけ、倫之助の耳元でささやかれる。
びくりと体がおかしい程にふるえた。馬鹿だ。本当に、馬鹿だ。
倫之助自身も、一彦も。
体を放されると、かすかな冷気が体を包んだ。
切れ長の、一彦の目が倫之助を見下ろしている。その目はどこまでも優しかった。
倫之助はただ、茫漠としている。
今にも崩れ落ちそうだった。
足に力が入らない。
なぜ、この男は自分を抱きしめたのだろうか。
なぜ、誰を好きでも、誰も想っていてもいいなどと言うのだろう。
その「意味」は何なのだろう。
「じき、夕飯だ」
「――はい」
「……すまなかったな」
一彦の姿がぐにゃりと歪む。その意味を知ることは、容易かった。
なぜ謝るのか。なぜ、自分は泣いているのだろうか。
雛田馨。
あの少女に何を言われても感じなかったのに、今はひどく痛んだ。
けれど――哀しくはない。
辛いが、哀しくはないのだ。
「俺は、なぜ泣いているんでしょうか」
ぬぐうこともせず、ただただ、ほおを濡らす。
一彦は人差し指でそれをぬぐった。びく、と再び体がふるえる。
「なんでだろうな?」
彼の、すこしだけ哀しそうな表情。
一歩足を引いて、そのまま倫之助は一彦の部屋から飛び出した。
そのまま自室に飛び込んで、ベッドの上にうずくまる。
「……う……っ」
赤い眼鏡を鬱陶しそうに外し、床に投げつけた。
かちゃん、というプラスティックが弾く音が遠く聞こえる。
「俺は……おれ、は……」
言い訳を探すように、嘘を探すように呻く。
ふいに、扉をノックする音が聞こえた。坊ちゃん、という、今は懐かしい声。
「坊ちゃん。いらっしゃるのでしょう」
半蔵だった。
彼の声はどこまでも倫之助を受け入れていた。
おそらく、一彦の部屋から飛び出したところを見たのだろう。
「いま、開ける……」
そっとドアノブを引く。そこには、自分以上に情けない顔をした半蔵がいた。
「泣いていたんですね」
「……悪い」
「謝るところではありませんよ、坊ちゃん」
中に入るように促す。半蔵はそれに素直に従い、部屋の中に入った。
すこしの沈黙。
それを破ったのは、倫之助だった。
「俺は、今まで辛いとも、助けてほしいとも思ったことはなかった……」
「はい」
「でも今は、とてもつらくて、誰かに助けてほしいと思っている」
「それは、誰にですか?」
「……わからない……」
「俺じゃないことは確かですね。……こんなに、目を腫らして」
そっと、目じりに触れられる。あたたかい指先は、一彦と似ているけれど、どこかが違う。
「俺は、人間の心をもってもよかったのか?」
「あなたはもうとっくに心をお持ちですよ。誰のものでもない、あなただけの心を」
「え……?」
静かにほほえんでいる半蔵は今まであったことを、すべて見、知っていたかのようだった。
「胸の痛みを、忘れないようにしてください。辛くても、痛くても。それは、あなたがあなたである証。……俺は、それをお待ちしていました。あなたが、あなたである証を持つことを。あなたが、あなただけの心を持つことを」
「はん、ぞう……」
ほんの寂しそうに、半蔵は囁いた。




