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月牙の剣【本編完結済】  作者: イヲ
小望月
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 すまないな、と一彦は言った。

 

 混乱している、と倫之助は思う。

 それでも、一彦の体温はあたたかかった。


「……どうして」

「どうしてだろうな」


 そっと呟く。

 だが、一彦の声は確信しているようだった。


 (半蔵。)


 ふいに従順な、あの男の顔がうかんだ。

 半蔵。

 半蔵と、何度こうしただろう。何度、キスをしただろう。

 おそらく、一彦は知っている。いや、絶対に知っている筈だ。

 それなのに、一彦は。


 どうして。

 なぜ、これほどまでに胸が痛むのだろう。分からない。


「おまえは相棒だ。それは変わらない。だが、なぜだろうな……」


 聞きたくない。

 せめて、今抱きしめている男へ、体を預けないようにする。

 手を握りしめた。

 なぜか、ふるえている。

 皮膚が破れそうなほどに握りしめ、ぐっと歯をも噛みしめた。

 ぎし、と音がする。


「お前を抱きしめたいと思った」

「半蔵……」


 噛みしめた歯。その力をゆるめると、あの男の名が出てきた。

 きっと、今。

 いま、違う男の名前を呼べば、放してくれると思った。


「馬鹿だな」


 ふっと、ため息をつくような声が上から聞こえてくる。

 

 (半蔵。俺は、どうすればいい。いや。ちがう。おまえはいつも、俺が選び取ったものを正しいという。)

 (けど、俺はこれを正しいとは思わない。思ってはいけない。)

 (たとえ。)


 たとえ――?

 たとえ、なんだ。


 (俺は。俺は……。正しいことなんて、したことがなかった。)

 (俺は人間ではない。けど、それを言い訳にしてはいないか。)

 

「半蔵の名前を出したって、俺は動揺なんかしねぇぞ。残念だったな」


 からかっているわけではなかった。

 ただ、いとけない子どもをあやすように、その手はあたたかかく、やさしい。


 何も言えなかった。


 う、と再び噛みしめた歯から悲鳴がもれた。

 目が痛い。

 喉が熱い。

 ひどく胸が痛む。

 感じたことのない痛みに、ひどく戸惑った。


「嫌だったら、突き飛ばせ。もう力、入れてねぇから」

「……」


 握りしめた手をひらく。そして突き飛ばそうと、手を肩にあてる。

 ガラスが心臓を傷つける程に、胸の奥深くが痛む。

 ズタズタに切り裂かれ、形も残らないほどに、こころ、というものが痛めつけられる。

 痛かった。

 ただただ、胸が痛かった。


「――たすけて」


 自分がだれかに助けを求めることなんて、なかった。

 けれど、するり、とそれは出てきた。

 自分でもひどく動揺する。なぜ、そんな女々しいことを言ってしまったのだろう。


「ああ。俺は、おまえを殺させない」


 たとえ化物であっても。

 たとえ半蔵と約定を果たしたとしても、誰にも殺させないという。


「おまえが誰を好きでもいい。誰を想っていてもいい」


 それだけ、倫之助の耳元でささやかれる。

 びくりと体がおかしい程にふるえた。馬鹿だ。本当に、馬鹿だ。

 倫之助自身も、一彦も。


 体を放されると、かすかな冷気が体を包んだ。


 切れ長の、一彦の目が倫之助を見下ろしている。その目はどこまでも優しかった。

 倫之助はただ、茫漠としている。

 今にも崩れ落ちそうだった。

 足に力が入らない。

 なぜ、この男は自分を抱きしめたのだろうか。

 なぜ、誰を好きでも、誰も想っていてもいいなどと言うのだろう。

 その「意味」は何なのだろう。


「じき、夕飯だ」

「――はい」

「……すまなかったな」


 一彦の姿がぐにゃりと歪む。その意味を知ることは、容易かった。

 なぜ謝るのか。なぜ、自分は泣いているのだろうか。


 雛田馨。

 あの少女に何を言われても感じなかったのに、今はひどく痛んだ。

 けれど――哀しくはない。

 辛いが、哀しくはないのだ。


「俺は、なぜ泣いているんでしょうか」


 ぬぐうこともせず、ただただ、ほおを濡らす。

 一彦は人差し指でそれをぬぐった。びく、と再び体がふるえる。


「なんでだろうな?」


 彼の、すこしだけ哀しそうな表情。

 一歩足を引いて、そのまま倫之助は一彦の部屋から飛び出した。


 そのまま自室に飛び込んで、ベッドの上にうずくまる。


「……う……っ」


 赤い眼鏡を鬱陶しそうに外し、床に投げつけた。

 かちゃん、というプラスティックが弾く音が遠く聞こえる。


「俺は……おれ、は……」


 言い訳を探すように、嘘を探すように呻く。

 ふいに、扉をノックする音が聞こえた。坊ちゃん、という、今は懐かしい声。


「坊ちゃん。いらっしゃるのでしょう」


 半蔵だった。

 彼の声はどこまでも倫之助を受け入れていた。

 おそらく、一彦の部屋から飛び出したところを見たのだろう。


「いま、開ける……」


 そっとドアノブを引く。そこには、自分以上に情けない顔をした半蔵がいた。


「泣いていたんですね」

「……悪い」

「謝るところではありませんよ、坊ちゃん」


 中に入るように促す。半蔵はそれに素直に従い、部屋の中に入った。

 すこしの沈黙。

 それを破ったのは、倫之助だった。


「俺は、今まで辛いとも、助けてほしいとも思ったことはなかった……」

「はい」

「でも今は、とてもつらくて、誰かに助けてほしいと思っている」

「それは、誰にですか(・・・・・)?」

「……わからない……」

「俺じゃないことは確かですね。……こんなに、目を腫らして」


 そっと、目じりに触れられる。あたたかい指先は、一彦と似ているけれど、どこかが違う。


「俺は、人間の心をもってもよかったのか?」

「あなたはもうとっくに心をお持ちですよ。誰のものでもない、あなただけの心を」

「え……?」


 静かにほほえんでいる半蔵は今まであったことを、すべて見、知っていたかのようだった。


「胸の痛みを、忘れないようにしてください。辛くても、痛くても。それは、あなたがあなたである証。……俺は、それをお待ちしていました。あなたが、あなたである証を持つことを。あなたが、あなただけの心を持つことを」

「はん、ぞう……」


 ほんの寂しそうに、半蔵は囁いた。

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