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「ありがとうございました」
「ああ、もういいのか?」
「……はい」
風が冷たい。
同じように、倫之助の心は凍ったように冷たかった。
「どうした」
「……あなたは」
あなたは、どうしてそんなに気づいてしまうのですか。
そんなことばは、出なかった。
まるでガラスの破片を踏み潰すように。
「相棒だろ?」
倫之助の頭を、とんと軽くたたいてから、歩き出す。
一彦はおとなだ。
いい意味での、大人だ。
彼の後ろを、そっと歩く。
何かを考えることさえ億劫だった。
変わる、とは何なのだろうか。
変わらないとは一体どういうことなのだろうか。
不変とは。
分からなかった。
変わることは正義なのか。
変わらないことは悪なのか。
「お、ここスニーカー売ってそうだな。入ってみるか?」
「あ……はい」
一彦はどこか楽しげにシューズショップに入って行った。
だが倫之助は、そのショップの前で立ち止まる。
足が石になったように、動けなかった。
「倫之助、どうした?」
「……一彦さん。俺は、変わったんでしょうか」
「――そうだな。すこし、な」
黒い髪が、冷たい風に揺れる。
一彦はすこしだけ、笑んでいた。
「どっか、ゆっくり話ができる場所に行くか」
ショップから出て、一彦は隣のスターバックスに入った。倫之助も、ゆっくりとした足取りでそこに入り、カフェモカを頼んだ。
店内は混みあっている。だからこそ、誰もふたりの会話など気にしないだろう。
一彦はホットコーヒーを頼み、一口飲み込んだ。
「確かにおまえは変わったよ」
「変わることは、正しいことなんでしょうか」
「正しい正しくないは言えねぇな。だが、人間は変わる。変わらない人間なんていない。不変なんてことはないんだ。何せ、言葉さえも変わっていくんだからな」
「俺は人間ではありません」
再び、一彦はコーヒーカップに口をつけた。
スターバックスの中は、すこし暑い。
一彦はネクタイをゆるめた。
「人間じゃなくても変わるさ。言っただろ。言葉でさえ変わるんだ。変わることは自然なことだよ。それを辛いと思うこともあるだろうが、それは乗り越えなけりゃいけないことだ。おまえが人間じゃなくても、そうやって苦しむことは、自然なことだよ」
「苦しむということさえ、俺にはわからない……」
「……そうか。おまえはまだ、若い。心がな。だから許されるさ」
ゆるされる。
ゆるされるのだろうか?
人類を滅ぼすかもしれないというのに。
「俺は、人間を殺すかもしれない存在です。そんな存在を、あなたは許すというんですか」
「そんなのまだわからないだろ? それに、そうさせないために相棒ってのがいる」
当たり前のように、当たり前のことをいうように、一彦は笑う。
どこかが痛かった。
辛かった。
これが、苦しむということなのだろうか。
分からない。
いや――分からないから苦しいのだろうか。
「違います」
ああ、そうだ。
そうだった。
「俺が人間を殺す前に――半蔵が、俺を殺してくれますから」
「……おまえはそれで、納得するのか?」
「俺は、ヒトが好きなわけではありません。でも、人間を殺すことは本意ではありませんから」
「死なせない」
ガラスの破片を飲み込むように、呟く。
机の上にのせていた手が、ぐっと握りしめられた。
どこかが痛むように。
「お前はいま、生きているんだ。それを消させねぇ」
「……どうして、あなたは……」
プラスティックのコップから、水滴がほつりと落ちてきた。
「こんな存在を案じるんですか。恐ろしくはないんですか。化物の俺に――真っ先に殺されると思わないんですか?」
「思わねぇな。なに、そんなに心配しなくていい。お前が俺を殺したくないと思っているなら、お前は殺せねぇよ」
「……そういうもんですか」
苦笑いをする。
何も心配いらないのだと、勘違いをしてしまう。
倫之助の中に、蛇がいるというのに。
カガチという名の、化物が。
「そういうもんだ。世の中ってのは、大体がどうにかなるもんだしな」
「だったら、いいんですけど」
苦しむことは悪ではないのだと、知った。
おそらく、正解がないのだろう。
苦しむことから逃げることもできない。
生きているかぎり。
「俺が何とかしてみせるさ」
一彦の呟きは、倫之助には届いていなかった。
「……そろそろ出るか」
「はい」
スターバックスから出て、時計を見るともう少しで昼になろうとしていた。
シューズショップに入ってから選び終えるまでには、レストランも空くだろう。
ショップに入ると、特有のゴムのにおいがしてくる。
「じゃ、選べ。俺は外で煙草吸ってるから。決まったら声かけろよ」
「分かりました」
倫之助は動揺していた。
誰かに何かを買い与えられる、というのは初めてではないだろうか。
ものを送られることが良いとか悪いとか、そういうことは考えたことがない。
だが、それがすべてではないということは分かる。
それは一彦も分かっているはずだ。だからこそ、その意味が分かる。
純粋な好意だ。
ずきり、
「……?」
かすかな、不可解な痛み。
それが何かが分からない。ただ、呆然とする。人びとが不審そうに立ち止まったまま動かない倫之助を見ては、興味をなくしたのか顔を逸らした。
やがて倫之助はその痛みを忘れさせるために、きれいに並べられている靴を見上げた。




