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耳をつんざくような、ひどい高音。
倫之助の血、そして赤い刀身にぬらぬらと光る、陰鬼の血。
「倫之助!!」
一彦の頬に、スーツに、血が降りかかる。
陰鬼の血なのか、それとも倫之助の血なのかは分からない。
ただ、濃厚な血のにおいがすぐそばにあった。
生々しい、それは生と死の間だ。
「……まだ、です。まだ生きてる……」
倫之助は倒れていない。そして、一彦に背を向けたまま呟いた。
血をかぶり、ぼんやりと輪郭を表した陰鬼は、ヒトの形をしている。
それは地に這いずり、ガタガタと震えていた。
(やめて……。殺さないで。怖い。怖い。)
倫之助の朦朧とする意識の中で、陰鬼は泣いていた。
だが、それさえ意味などないことを知っている。
「お前たちは敵だ。ヒトを殺す、人間たちの敵だ。それにしかならない」
(敵だったら、殺していいの?)
「そういうお前たちは、いったい何人の人間を殺してきた。それと同じだ」
細かい呼吸をつなぎながら、倫之助はそう吐き捨てた。
「それが悪だというのなら、俺は」
楊貴妃を構える。
喜びに震える楊貴妃は、どこか声を出して笑っているような気がした。
息絶えた陰鬼は徐々に力を失っていくように、姿を表していった。
陰鬼は女型で髪の長い、少女のような背格好をしている。
「坊ちゃん! 大丈夫ですか!」
「俺は平気だ」
「次長、運搬班を。すぐそばで待機している筈です」
「ああ」
峰次が携帯で運搬班へ連絡を取っている隙に、一彦は倫之助の目を見下ろす。
黄金色に輝く目は、今までと何ら変わらない。
ただ、少し疲れているようだった。
倫之助は言った。
「悪になってもいい」
と。
運搬班が担架を持ってきたが、倫之助はそれを断った。運搬班の男も、無理に担架に乗せようとはせず、トラックの中で服の上から布をきつく巻いている。
だが、肩の傷から出ていた血は白い布に滲むことはなかった。
もう出血が止まったというのだろうか。
「あまり痛くはないんです」
「え? そんな筈は……。かなり深いですよ」
運搬班のトラックの中にいた医療班の女性は、不審そうに布に包まれた傷口を見下ろした。
確かに、血は大量に出ていた。
だが、傷口は浅いものだと思っていた。
「そうですか」
倫之助は彼女の言葉に、感心がなさそうにうなずく。
まるで、他人事だ。
「でも、痛くないんです」
そう、他人事のように。ぼんやりと呟いている。
医療班の女性は、それ以上問い詰めたりせず、倫之助のとなりに座った。
どこかおかしい。
そう感じたのは、半蔵と一彦だった。
いつもよりも、ぼうっとしている気がする。
けがをしているからかもしれないが。それでも少しおかしい。
口では言い表せないが、倫之助が倫之助ではないような。
ビルに着き、医療室に連れて行かれた倫之助を見送る。
「坊ちゃん……」
「なんか、おかしくなかったか? 倫之助」
「……カガチ……。あれは、坊ちゃんじゃない。あれはカガチだ」
「カガチ? あの、100年前の風彼此使いか?」
「そうだ。カガチは今、坊ちゃんの中にいる」
「……!」
「見たことがある。カガチの姿を。あれは、蛇だ。女の形をした蛇だ……」
煙が出ている。
黒い煙が。
「な……なんだ……これは……」
倫之助の肩から、どす黒い煙が出ている。
あれだけ深かった傷口は既に塞がっていた。
その場にいた医療班の人間全員が、驚愕している。
「私でなければ、できない荒業だけどね」
「……私? 何を言っているんだ、沢瀉君」
「私は沢瀉倫之助じゃない。カガチ……。そう、おまえたちが100年前の伝説の風彼此使いともてはやしてのが、私」
女の声だ。
女の声がする。
煙が徐々に消えていき、やがて傷口は跡形もなく消え去った。
「信じろとでも」
「信じるか信じないかは自由。でも、今日は忠告しに来たの。沢瀉倫之助は観測者。ヒトが生存し続けるに値するかどうか観測している。そして私は、ヒトという存在の処刑人というところ。ヒトも陰鬼もいない世界にするため。そうすれば、誰も傷つかない。そう、意味を知ることもない。知って傷つくこともない。死だけは平等だから」
「……処刑人か」
「じ、次長!」
医療室を訪ねたのは沢瀉峰次だった。
表情は険しい。
手には――金獅子を携えていた。
「お前が処刑人だというのなら、人類の敵と呼べるかもしれんな」
「そうね。そうかもしれない。ヒトにとってはね」
「ヒトにとっては? お前の上には何がいる?」
「いないわ。ヒトと陰鬼の中間……。それが私。お前たちの感情……。死へ触れ、生へ触れた心。その心が、感情が、私たちを創った」
「その存在が、人間を殺すということか」
「子は親を越えるものよ。……ちょっとおしゃべりが過ぎたみたいね。そろそろ代わらないと戻れなくなってしまう。じゃあね。お父様」
ふっと、倫之助の身体が揺れる。
「倫之助君!」
その体を支えたのは、峰次だった。そして、彼の背中を見て目を見開く。
蛇の紋様。
緋色の、蛇。
黄金色をした、鋭い瞳孔。
それが、倫之助の背中に存在していた。
先刻までのあれは夢ではないのだと、そう主張しているようにも思えた。




