15
虫の羽音のような、不愉快な音。
一彦だけが聞こえるその音は、今までの陰鬼が発する音の中で、一番不愉快で、不快だった。
肌に虫が這うような、寒々しい感覚。
(どうして。)
(どうして、痛くするの?)
かすめただけの傷だ。
この陰鬼にとっては、どうということないだろう。
ただ、不思議なのだ。
同志だという、倫之助が鬼を傷つけることを。
もう、倫之助は応えなかった。
ただ鬱陶しそうに顔を歪めている。
だが、声色が変わってきていることには気づいた。
同情を誘いたいのか、少女のような声を出している。
けれど倫之助は別に同情もしないし、何の感情も抱かない。
その陰鬼は的確に、倫之助を狙ってなどいなかった。
倫之助の血が陰鬼にとって猛毒であることを知っているかのように。
それでも、かすかに乾いた陰鬼自身の体液が、「そこ」にいることを示している。
倫之助の目は、たしかに陰鬼を捉えていた。
かちゃり、と刃が振動する。
姿の見えない陰鬼は、確かに存在していた。
といっても、数年前に一度出現しただけなのだが。
その時は、多くの風彼此使いが犠牲になったと聞く。
でたらめに風彼此を振りかざしても、それは陰鬼にとって都合のいい格好にしかならない。
隙ができるだけだ。
その場に、峰次もいた。
才能もあり、若かった峰次は、その陰鬼の前で打ちひしがれた。
陰鬼は恐ろしいものだと、陰鬼は人類の脅威でしかないのだと。
そう、知った。
だからこそ、風彼此使いの「血筋」を求めた。
自分の血を引く、風彼此使いを。
だが、夫婦の間に子供はできなかった。
そのまま、病で彼女は死んだ。峰次に謝りながら。子供ができなかったのは自分のせいだと、そう嘆きながら。
峰次は、違うといった。
それは半分嘘だった。
それから数年、沢瀉の家の前で立っていたのが名のない子供――戸籍さえなかった、風彼此使いだった。
峰次の母親がその子供に倫之助という名前をつけ、風彼此使いとして育てたのは、峰次ではなかった。
皮肉な話だ。
誰よりも望んだ自分の風彼此使いを、自らの手で育て上げなかったのは。
倫之助が小学生の頃、ぼろぼろの身なりをしていた半蔵が転がり込んできたのは、今にして思えば幸運だったのかもしれない。
子供は、孤独ではなくなった。
そして、誰よりも安堵したのは峰次だった。
どこかにあった罪悪感を、半蔵に擦り付けることができたのだから――。
一彦の百花王と、なにか硬質なものがぶつかる音が聞こえる。
火花が散った。
「……ちっ」
舌打ちをし、嫌悪さえする音に耳を傾ける。
「分かってやがる」
感知型の風彼此使いは感知し続け、さらに風彼此を出現させ続けていると、折れる可能性がある。
2つの力同士が反発しあうのだ。
一彦は、こめかみから汗をにじませながら、なおもその陰鬼の居場所を探っている。
「一彦さん、それ以上は危険です。そのままだと折れる可能性がある。俺がフォローします。場所さえ分かればなんとかなるかもしれません。半蔵はそのまま、俺のところまで誘導してくれ。数秒隙をくれればいい」
「坊ちゃん! それは危険です!! 造龍寺と共倒れになってしまうかもしれません」
「なに、そんなヘマはしないさ。こいつは」
顎から、汗が落ちる。
呼吸が荒い。
半蔵はそれを見、一彦の限界が近いのだと知る。
「……分かりました。ほんの僅かかもしれませんが、隙を作ってみます」
六連星をきつく握ったまま半蔵は頷き、ぼろぼろの地面を蹴った。
姿は見えない。
だが、感じえる。
「一彦さん、俺が斬ります。あなたは半蔵と俺に指示を」
「……分かった」
一彦の手の中にあった百花王は、すでに姿を消していた。
黒い、よれよれのスーツの袖で汗をぬぐう。
どうせしわの寄ったスーツだ、汗くらいどうということはない。
音を聞く。
羽音。
空気の振動。
どこに、何があるのか、一彦にはわかりすぎていた。
逆に分かりすぎて、頭が割れるように痛む。
何キロ先にいる人間の声、ざわめき、鳥の声、羽ばたく音。
それが何重にも重なって、頭の中に響く。
その中で、この陰鬼の居場所を掴まなければいけないのは、至難の業だ。
だが、それを掴むことができるのが造龍寺一彦だった。
この場所に来た時から、ずっとそれを探り、掴み続けていたのだ。
それができ、更に風彼此を使うことができる感知型の風彼此使いは稀有だ。
大体、どちらかが劣る。
一彦は、どちらも劣っていない。
それが元蝶班に配属され、今はその仮とはいえ、班長であるゆえんだ。
半蔵に指示をする一彦は、先ほどよりは辛そうではない。
(どうして。)
(どうして。)
かすかに聞こえる、陰鬼の声。
だが、一彦もそれに同情などしない。陰鬼の言葉に耳を貸さない、ということなど元から知っていた。
それは感知型の風彼此使いだからこそだろう。
(痛い。)
(痛いよ。)
幼い少女の声でも、陰鬼にとっても一彦にとっても、意味のないものだ。
「半蔵! それでいい。一歩、横に足を引け」
うまく誘導できたのか、倫之助のいる目の前で横に足を引く。
倫之助はそれを認め、楊貴妃を再び握りしめ、足を逆に一歩、後ろに踏みしめた。
血の跡。
その軌跡。
一彦が見たのは、その血が散った跡だった。




