13
むき出しの、今まで見たことのない倫之助の心が見えた気がした。
弱音、という名の。
「……それでいい」
スーツが濡れて、重たくなる。
爪先から、雨の粒が落ちた。
「行くぞ。風邪ひく」
「………」
幼い子供のように、倫之助は頷いた。
黄金色の目が、くすぶっていた。
ビルに戻ると、倫之助はすぐに自室に戻った。
倫之助の様子がおかしいのは、すぐに見て取れる。
自分の存在する意味。
それをもしかすると、知ったのかもしれない。
だが、それは決していいことではなかったのだろう。
雨の音がかすかに聞こえる。
ここは地下のために、窓がない。だが、ほんのわずかでも聞こえるということは、だいぶ強い雨なのだろう。
「……一服してくるか」
自室から出て、外に出ようと階段をのぼる。
「造龍寺」
ふいに聞こえたのは、半蔵の声だった。
はりつめた、声。
「どうした?」
「坊ちゃんの様子がおかしい。おまえ、何か知ってるな?」
「ああ……。悪いと思ってるよ」
「そう言うことを聞いているんじゃない。何をした、と聞いている」
「後悔することは呪いだと言っていた。すこし、話をしたんだ。おまえがしなかった話をな」
「……そうか。坊ちゃんは……なにかを知ったのかもしれないな……」
半蔵はどこか寂しそうに笑っていた。
この男ができなかった、しなかった話。
あえて、だろう。
半蔵は、倫之助の部下などではない。ただ、「主従」という関係だ。
倫之助は半蔵の全てであって、そしてただ――付き従うだけだ。
「おまえのような存在が、坊ちゃんには必要なのかもしれない」
「なんだよ、寂しそうだな?」
「……俺にはできなかったことを、おまえは坊ちゃんにしてやれる。それはおそらく、必要なことだ。そうでなければ……坊ちゃんは――人間を滅ぼすことにためらいをなくしてしまう」
「おまえは、倫之助がヒトを滅ぼすことに是というのなら、それに従うのか」
「俺はあくまで、坊ちゃんを肯定するための存在。否定など、するものか」
半蔵は、やはり笑っていた。
なにかを隠しながらも。
「そこにおまえの意思はないのか?」
「俺の意思など……坊ちゃんには関係ないが、ただ、あるとすればあの人の役に立ちたい。それだけだ」
「不器用だな。おまえも、倫之助も」
雨は強く、激しくなってきている。
これだと、外に出た瞬間ずぶぬれだ。煙草をすうのはやめておこう。
「それにしても、あの花乃って女は、何なんだ? 口伝でしか伝えないということは、どうせやましいことでもあるんだろ?」
「タクシーのなかで説明したとおりだ。大守家は古い家で、昔から政府と絡んでいた。人工的に風彼此使いを生み出すという事も、本気で考えているんだろう。そしておそらく、それはもう進んでいる。兄とあの女の子供が、実験体になっているという事も本当のことだろう。第一段階はもうじき突破するだろうな。あの女の機嫌がよかったのはそのせいだ」
「あれで機嫌がよかったのか?」
「機嫌が悪い時には俺たちになど話はしないさ」
こつ、とふいに足音が聞こえる。
階段を、品のいいブーツで踏む音。
「面白い話をしているね」
蘇芳エーリクだった。
にこやかな表情だが、どこか気味が悪い。
「知っていた話では?」
「ああ、確かに知っているよ。服部半蔵保永くんのお子が実験体になっていることはね。許されないことだ」
びりりと空気が震える。
許されない。
その言葉だけで、背筋に冷や汗をかく。
「非人道的すぎる。花乃という女のことは知っている。あの女の遺伝子は濃い。遺伝子情報を人工的に構築し、再現したものをまだ1歳にも満たない子にすこしずつ、流入している。一気に注入してしまえばその子の遺伝子が書き換えられて、あの女と同じ人間が出来上がってしまうかもしれないからね。それは危ぶまれることだ」
「蘇芳家と大守家はどういう関係なんですか?」
「造龍寺くん。きみの思っている通りだよ。大守家はヒトが戦わなくていい、陰鬼と対峙しなくてもいい世界を望んでいる。それは、政府も同じだ。すでに、諦めている。人類が生存し続け、陰鬼を全滅させることを。だが、僕たち蘇芳の一族は違う。決して諦めない。陰鬼をすべてこの世から排除することを」
そのために、倫之助が必要というわけか――。
一彦は、心中でそっとため息をついた。
どちらも、どこかいびつで、おかしい。
大を助け、小を見捨てる。
ふたつの家も同じなのかもしれない。
蘇芳エーリクも、その代償に沢瀉倫之助を生け贄に差しだそうとしているのだから。
だが、この世はきれいごとだけで回らない。
回ることなど、できないのだ。
誰が決めたのだろう。
誰が、そんな残酷なことを決めたのだろうか。
それが神と呼ばれる存在であったなら、誰もがそれを恨むだろう。憎むだろう。
「では、僕はこれで失礼するよ」
蘇芳エーリクはそれだけ言うと、背を向けて階段を昇って行った。
彼の力というものは、このビル全体に及んでいるということは、本当のことだったのだろう。
筒抜け、ということだ。
それで本当に、よく気が狂わないと感心する。
「ああ、半蔵。明日、陰鬼が出るようだから、さっさと寝た方がいいぜ」
「……そうか」
半蔵は素直にうなずき、自室へと戻って行った。




