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「あまり飲まない方がいいですよ。陰鬼が出るんでしょう」
「そのへんはちゃんと分かってるから大丈夫だって」
「そうですか。ならいいんですけど」
お通しに箸をつけて、焼酎をのむ。喉を通る、かすかな熱さが久しぶりに感じた。
倫之助はそれから何も言わずに黙々とお通しを食べている。
小鉢だというのに、いまだ食べ終わらないらしい。
おそらく、一度食べる量がすくないのだろう。
「……仕事ではない話、とは?」
料理が運ばれてきてすこし落ち着いたころ、話を切り出したのは倫之助だった。
一彦は一口、焼酎を飲み込んでから切り出した。
「おまえの未来の話だ」
未来。
ヒトは、今瞬間にもそれが過去になる。
未来は未来にしかなく、過去は過去にしかない。
遠い未来。
遠い過去。
それが決められたものであっても、そうあるべきだと思うのは自分自身でしかない。
過去は変えられない。
どう足掻いても、過去だけは変えられない。
だがそれがどうだというのか。
未来がある。
それだけで、希望はあるのではないか。
「未来……?」
「おまえは人間ではない」
その声色はかすかに沈んでいる、と気づいたのは過去の事だった。
「そうですね」
だが、倫之助は意に反して何も感じていないようだ。
それが当たり前だというかのように。
「それは決められたことだ。変えられないことだ。だが、おまえの未来だけはおまえが決められる。それはおまえだけのものだからだ」
「俺だけのもの……ですか。あなたは正しい。そう思い、そう言葉に出すこともきっと正しいのでしょう。けど、俺はその言葉が眩しい。手に入らないと思っていた未来。俺はそれこそが化物だと思っていました」
彼はいつになく饒舌だった。
未来という名の化物。
姿かたちのない、あいまいで険しい、そして苦痛を持ちながら歩み、掴まねばならない、それ。
確かに化物と呼ぶことは正しいだろう。
「俺の未来は、俺が決めていいのかさえ分からない……」
「決めるんだよ」
「……そうですね。それがきっと、一番人間らしいことなのかもしれない」
その言葉には、どこか羨望が含まれていた。
彼は、人間で在りたかったのだろう。心も。
「悪いな」
「何がですか?」
「年を取ると、妙に説教臭くなっちまって」
「俺に説教する人なんて、そうそういませんからね。新鮮な気持ちです」
「半蔵は説教って柄じゃねぇからな」
「あの男は俺に口出しなんてしませんから。あなたのように導いてくれることも、制してくれることもしない」
ウーロン茶を飲み込んで、ひとつ息をつく。
半蔵は、一彦から見ても異常だと思う。
だが、半蔵はそれが「通常」なのだ。
倫之助に付き従い、すべてを受け入れ、そして彼の言う言葉こそが、彼の行うことこそが正義なのだという。
どこで狂ってしまったのだろうか、と思うことすら忘れてしまっている。倫之助も、半蔵も。
一彦は傍観者だ。
一歩引いたところにいる。
「さて、真面目な話はこれまでだ。おまえ、好きな子とかいるのか?」
「いませんけど。その必要もありませんし」
「そりゃさみしい青春時代だなあ」
「あなたは?」
黄金色の目が、じっと一彦を見つめる。
それにいざなわれるように、口を開いた。
「残念ながら。言えるような人はいないな」
「その質問の意図が分からなかったんですが」
「いや、若いやつだから、好きな子の一人や二人いるもんかと。でもまあ、おまえの性格だったら二の次どころかずっと後なんだろうなあ」
「ご名答ですね。その通りです。でも、あなたのことは好きですよ」
「……そりゃあ、どうも」
ふっ、と思い出す。
服部の家の、書庫。
触れた手のわずかな冷たさとあたたかさ。
手首の骨の感触。
あの、黄金色の瞳。
変えられない過去の、海辺。
海に呑まれた思い。
よく、似ている――。
細い髪。
つやのある黒い髪。
「どうかしましたか」
「いや。昔のことをおもいだしてな」
「昔?」
「おまえとよく似ていた。別に好きだったってわけじゃないんだが、そいつは、俺の目の前で死んだんだ」
「……自死、ですか」
「そうだな。あいつは海が好きでな。俺もよくつき合わされた。まだ、風彼此に目覚めていなかったときだ。おまえと同じ年の時だから……もう15年くらい前か。いつもみたいに崖の上から海を見下ろしていた。そう、いつもみたいにな。だが、あいつは……何も言わず、逝っちまった。遺書だけを残して。飛び降りたんだ。だが、遺体はまだ見つかってない。あいつは、海に見初められたんだ、と言い訳をしてきた。そう思うことで、俺を正当化しようとしてた」
倫之助は、くちびるを閉じて、じっと聞いていた。
「おまえと、本当によく似ている。だが、罪を思い出させるってわけじゃない。気づいたんだ。あいつは……自分の未来を自分で選んだんだ、ってな。だから、責めることはしない。懺悔もしない。……遺書には、こう書かれていた。一彦、ありがとう。ただ、それだけだ。だから、あいつは後悔していない。そして遺された俺たちも、後悔しない。そう望んでいるんだろう。あいつも」
自死は、周りの人間に暗い影を落とさせる。
倫之助はそっと目を伏せ、残り少なくなったウーロン茶が入ったグラスに口をつけた。




