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彼女が2人がいる廊下に戻ってきたのは、ものの数分だった。
どう考えても「分かっていた」としか思えない。
「中庭でよろしいかしら」
「どこでも結構です」
花乃は、にこりと再びほほえみ、中庭がある場所へ案内した。
中庭には川が流れており、嫌味なほどに広い。
「倫之助さん。あなたは私に何をしようと?」
「分かっていない分、こちらとしては助かります」
ここで初めて花乃の微笑がくずれた。
かすかな「恐れ」を感じている――。そう一彦は感じた。
なぜなら、彼の手には楊貴妃が握られていたからだ。
「分かっていないのなら、倫之助さんは不得手ではなくて?」
「どうでもいいことですよ。そんなもの。俺が知りたいのは、100年前の風彼此使いのことだけですから」
「……そういうことでしたか。なら、私の記憶の奥の奥にそれは潜んでいるかもしれませんね。大守家は文章にはしない。口伝で受け継いでいるものですから。もっとも私は忘れてしまっているのですけれど」
「ヒトの記憶から消えるものは限られています。口伝で伝えられているのならば、それは記憶から決して消えない。だからこそ大家に嫁ぎ、あのような事をしている」
倫之助の言葉は、はっきりとそれを示していた。
彼女は――花乃は、保永を好いて結婚したのではない、と。
「俺にとってはどうでもいいことですが。あなたの子どもがどうなろうと」
「おい、倫之助。それは……」
「どうでもいいことなんですよ。……あなたにとっての沢瀉倫之助という虚像は、どういう存在なのか俺には分かりませんが」
「さすが、ヒトならざる存在ですね? 倫之助さん。一時の感情で動くことはしない。かと言って、冷静というわけではない。子供らしい、強がりとでも言いましょうか?」
「どうとでも」
花乃の言葉は倫之助を挑発しているのではない。
ただ、言葉にしているだけだ。
彼女の空気は蘇芳エーリクの空気と真逆だった。
蘇芳エーリクが善とすれば、服部花乃は悪。黒ずんだ、邪悪。
似ている点を挙げるとすれば「性格」だろうか。
「花乃さん。大守家が口伝で伝えた、その記憶をもらい受けます」
彼女はまるで微笑ましいものを見るように、倫之助を見据えた。
そして――一陣の風が吹く。
花乃の手には、薙刀を模した風彼此が握られていた。
そしてそれは――ためらうことなく倫之助の首へ伸びていた。
ぎん、と、鉄と鉄がこすれる音がしたのはそれと同時だ。
藍色の作務衣。
使い古された草履。
黒いつややかな、痛みさえ知らないような髪の毛。
「ご無事ですか。坊ちゃん」
知っていたのか倫之助は驚きもせず――逆に呆れたように肩をすくませる。
「は、半蔵!? おまえ、どっから」
「実家の庭だから、普通分かるだろう?」
そういう意味ではないのだが、と一彦は思うが、そこでふいに気づく。
半蔵は一切花乃の顔を見ていない。
先ほどの一手も倫之助の方を向き、槍を背中にまわして受けたのだ。
「坊ちゃん。なぜ、俺の家へ」
「それは言えない。そういう約束だからな」
「……わかりました。そういうことならば、あえて聞きません」
深いため息をついて、半蔵はようやく花乃のほうへ向き直った。
その表情は、まるで汚らわしいものをみるようなものだった。
おそらく、花乃の「本性」を知っているのだろう。
「どうして邪魔をなさるの? 正成さん」
「坊ちゃんを傷つけさせるわけにはいかない」
「あなたに守ってもらわなくとも、この化物は死なないですよ」
「……俺より坊ちゃんの方が強いことなど、百も承知している」
「そうですか。ならばよいのですが。自分の技量を知ることは、重要なことですから」
半蔵はうさんくさいものを見るように、花乃を見据えた。
彼は、ほんとうに信用していないのだ。花乃のことを。
「すべてはあなたの自己満足ですのね」
いたぶるように、半蔵を見つめ返す。邪悪な笑みだった。
「それでいい。半蔵は、そうであるべきだ」
「……坊ちゃん」
「誰にも強制されない。俺にも――俺の父にも。そして花乃さん。あなたにも」
「あら。私がいつ正成さんに強制したというのですか?」
「気づいていないんですか。それこそが、あなたが二流どまりと呼ばれる理由ですよ」
大守花乃――今は服部花乃と呼ばれる存在は、風彼此使いとして「二流」と呼ばれている。
しかし、実際は大型の陰鬼をひとりで片づけることができる力を持っていた。
その彼女が二流どまりと呼ばれる所以――それは、「人格のひずみ」だ。
倫之助のように欠けているわけではない。
彼女は、「それが正しいこと」と知っていて、間違ったことをしている。
いわば、「性格が歪んでいる」のだ。そして、単純であった。
悪いことをしたらいけない。
そういうことを知っている。むしろ、常人よりも知っているだろう。
「二流どまり……。目の前で言われるのは初めてですよ。倫之助さん。あなた以外の全員は陰口ですんでいたのに」
傷ついた、とでも言うようだったが、彼女の微笑みはそのままだった。
邪悪な微笑みは。
「半蔵が気づくのに、だいぶかかった。それはあなたが糸を引いていたからだ。そう、名のとおり。気づかない、ということを強要したんでしょう。あなたが隠したがっている、その玉滴の力の一つだ」
玉滴、とよばれた彼女の薙刀は、刀身が赤い。まるで――倫之助の楊貴妃のように。
そして、ここで初めて花乃の表情がゆがんだ。
疎ましいものを見るような表情に変化した。
「そういうところ……誰にも似ていなくて、とても汚らわしいわ。倫之助さん」




