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ずっと、秘めていたことがある。
自分という存在は一体何なのか、と。自分に何の意味があるのか、と。
おそらく他の人間も考えることがあるだろう。
ただ、倫之助はそれが異常に気にかかっている。
それが知れないと死ねないし、それさえ「意味がない」。
じわり、と一彦の手のひらの温度が伝わってくる。ここは暑くはないが、一彦の手はあたたかかった。
「俺と対等になりたいというのは、本気ですか? 俺は、人を見上げてきた。ずっと。あなたが言った、観測、ということばは言いえて妙ですね。確かに俺は観測者だった」
「人間を観測していたって、自分の意味を見つけることはできねぇはずだ」
「そうですね。でも、なぜでしょう。俺はそう信じていた。人を見ていれば、俺は意味を知ることができると」
あり得ないことだと知る。
倫之助は、倫之助自身を見ていなかった。
ほかの人間を観測してきて、何を得ただろうか。
これから得るかもしれないし、一生得られないかもしれない。
だがそれは未来の話だ。
今という現在しか生きられない倫之助にとっては、まだ遠い存在だった。
「未来」という、名ばかりの化物の存在は。
「半蔵は言わなかったのか?」
「言いませんよ。あの男は。半蔵は俺を導くことはできない。俺に従うだけです」
「まあ、そうなるわな」
半蔵はただ、倫之助に付き従うだけだ。
妄信的に。
もしも半蔵自身が倫之助の言動を「邪道だ」としても、それを止めるような精神力はない。
「だから、きっと……あなたが俺を止めてくれるはず。俺が人間ではなくとも俺は人間として、まだ生きていたい」
それは、誰にも吐露したことがなかった倫之助の欠けた心の更にその破片のようなものだった。
肉眼でさえ見えない、その欠片。
これを拾うことができたのは、半蔵ではない、一彦だった。
半蔵は、それに触れることはできないだろう。これからもずっと。おそらく、永遠に。
一彦は軽く目を見開いて、かすかに微笑んだ。
「おう。任せとけ。そのための相棒だ」
「……それで、どうして俺は壁に押し付けられているんですかね」
「ああ、……すまんな」
「それとも、あなたも半蔵と同じなんですか」
「同じってなんだ?」
「ご褒美」
倫之助の黄金色の瞳が、申し訳程度の電灯に鈍く反射して輝く。
それは情欲を誘うようなものでは決してなかったが、一彦はわずかな不安感を覚えた。
そのご褒美、というものがどのようなものか分かってしまったからだろうか。
「いらねぇよ。相棒にそんなことはさせられない」
「そうですか」
やっと倫之助から離れ、ため息をついた。それは、自分を落ち着かせるために他ならない。
赤い眼鏡を押し上げて、倫之助は地上へ通じる階段がある方角へ向かった。
一彦もなんとなくそれに続く。
ぱっと目を焼くような明かりに、思わず目を細めた。
だが倫之助は何事もなかったかのように、一彦を置いて廊下を進む。
よれよれのスーツを何となしに引っ張って、わずかでも見栄えをよくしようとしたが、それは失敗に終わった。
ただ生地が伸びただけだったのだ。
「そろそろ、花乃さんが帰ってくる時間です」
「……赤ん坊連れてどこに行ってるんだ、その花乃って女は」
「さあ。それほど興味がないのでわかりませんが、人体実験を行っているとか行っていないとか」
倫之助があまりにも、本当に興味がなさそうに言うので、一彦はただ「は?」と答えるのが精いっぱいだった。
「花乃という女性はそういう人なんですよ。自分の子供を実験体にすることに異論がない。保永さんやご当主はどう思っているのかは知りませんが」
「それが本当だとしたら、一体なんの――」
「人工的に風彼此使いの能力を植え付ける、というものだったような。まあ、そんなもの眉唾物ですが、花乃さんは今まで見てきた女性の中で一番したたかで気味の悪い女性ですよ。元蝶班班長より」
「私も、なかなか偉くなったものですね」
その花乃という女が赤ん坊を抱いて出てきたのは、ほぼ同時だった。
彼女は黒い髪の毛をゆるく紫色のリボンで結んで、流水紋の着物を着ている。
その両手には、白い布に包まれて寝息をたてている赤ん坊がいた。
うつくしい女だった。
ぞっとするほどに。
その目はエメラルドグリーンのように輝いている。
「お久しぶりです。花乃さん」
「もう何年もお会いしてませんでしたから。大きくなりましたね」
「それはどうも。保永さんはどうされました?」
「あの人なら、まだ職場から戻りませんよ。今日、戻るかどうかもわかりません」
にこりと微笑む花乃は、それがさみしい、とか、辛い、などという表情をしていなかった。
むしろ保永がいないことが当たり前だというかのようだ。
「あなたにすこし、お話が。ああ、それから申し遅れました。こちら、蝶班の、仮ではありますが班長の造龍寺一彦さんです」
「あら、蝶班の……。よろしくお願いいたしますね。造龍寺さん」
「――どうも」
この女の末恐ろしさはまだ知らない。だが。この女もどこか違う。ヒトと、何かが違った。
倫之助が人間ではなければ、この女は邪悪そのものだ――。
「では、当主にこの子を預けてきますので、少々お待ちいただけますか?」
「はい」
花乃は微笑みを浮かべてから、しずしずと当主の部屋へ向かっていった。
倫之助の視線は一彦に向けられている。
一彦はかすかに肩をすくめて、花乃の背中を見送った。




