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当主の言うとおり書庫はひどくカビ臭い場所だった。地下のせいか、じめじめしており湿気も強い。
なぜ書庫を地下に造ったのかは不明だが、おそらく最初は書庫ではなかったのだろう。
「うーん……」
倫之助は湿っていそうな古い本をめくって、珍しく呻いている。
「どうかしたか?」
「駄目ですね。文字がにじんでいて読めないどころか見えない」
「そりゃそうだろうな。ここは湿気だらけだ」
一彦は最初のうちは真面目に探していたが、殆どが読めないとわかると諦めていた。
退屈そうに、壁によりかかって欠伸をしている。
「100年前ってんだから、そんなに古いもんじゃないだろ。それさえ読めねぇってんだから、それ以前の本なんて無理無理」
「そうですね。常識的に考えればその通りでしょう。まあ、予想通りというか何というか」
「……予想通り? じゃあ何のためにここまで」
ひたりと彼の目が一彦へと向けられる。
その目は黄金色というよりも、影のせいで赤みを帯びていた。
「……倫之助?」
背筋に冷たい汗がにじんだ気がする。
倫之助から発せられる純粋な「恐怖」。ひとつの混じりけもない美しく、芯から透き通る感情。
それこそが、倫之助が倫之助である要因ではないのだろうか。
「俺がここにきたのは、すこし見ておきたいものがありまして」
「見ておきたいもの?」
「ええ」
ずらりと並ぶ本に興味を失ったのか、適当に腐り始めた木の本棚に仕舞った。
倫之助は書庫の壁に一彦と同じように寄りかかり、低い天井を見上げる。
「花乃さんに少々用事が」
「保永さんの嫁か?」
「彼女も風彼此使いで、俺と同系統の力を持っているんです。彼女に近づくにはこの屋敷に乗り込むのが一番だと思いまして」
「だったら最初から――」
「気づかなかったんですか? あのビルは、あの班長の力が及んでいる。話せば長くなるのですが……。花乃さんの家は蘇芳エーリク……彼と少しばかり因縁があるんです。花乃さんの家――大守家は代々そういう系統の力を持っていて、何というか……蘇芳さんの力と少々間合いが悪いんです」
間合いが悪い――。相性が悪い、ということだろうか。
蘇芳エーリクの力はよく分かっていないが、倫之助の力は分かる。
「だから、おまえをけしかけたのか。まったく、末恐ろしいな。あの男は」
「まあ、てっぺんに立つ人間が手を汚さないのはこの時代、そうそう珍しくはありませんからね」
「手を汚す……?」
「別に、悪いことはしませんよ。ただ――少々手荒いことをする程度です」
「おい、花乃って女はもう人妻だろ」
「関係ありませんよ。すべて忘れられるんですから」
倫之助の横顔を見下ろす。
そこには何の感情も表していない、ただの彫刻のようにそこにあった。
すべて忘れられる――。
そこに、違和感を感じた。
「一彦さん。あなたの陰鬼を検知する能力とおなじです。俺の楊貴妃は、人体――感情、記憶を含めて何らかの存在を吸収する力も兼ね備えています。まあ、あまりいい思いはしませんが」
「……そうだろうな。風彼此は自分の存在そのものだ。自分以外のどこかや誰かにに放出することはできない」
「そんな大層なこと、思っていませんが」
ふっと、倫之助が笑う。
その時感じた感覚に、ぞっとした。
いや――もう遅かった。
「……なにか?」
黄金色の目が――満月の色が――見上げている。
手首を握りしめ、倫之助の身体を壁に押し付けていた。
黒くうねる髪。
暗い部屋のなかにいるせいか青白く見える肌。
それが一彦をさいなませた。
「俺は人間ではありません。人間に似せて作られた存在です」
ざああ、と、砂嵐のような音が耳朶を襲う。
まるで倫之助の存在が遠く遠く、遠ざかっていくようだ。
聞いてはいけないのだと、本能が言っていたのかもしれない。
だが、「それ」は素直に入ってきた。
人間ではない、ということを。
確かに、時を止めるという芸当は人間では決してできない。
100年前の風彼此使いとて、本当に存在したかどうかも分からないのだ。
それをわざわざ一彦に打ち明けるということは、倫之助にとってどうということもなかったのだろう。
相棒だから、というわけではない――。
むしろそれ以上でもそれ以下でもない。
「俺は、おまえにとってどういう存在だ? ただの……ただの、他人か?」
「あなたが、俺のことを相棒だと言ったのでしょう。だったら、そうなんでしょうね」
「……俺はおまえのことが分からない」
「人と人は、他人同士です」
愕然とする。
ある意味、半蔵と一彦は同じ線上にいる。
それこそ、それ以上でもそれ以下でもないのだ。
特別、などとそんな存在はいない。
なにも――望んではいないのだ。
それがどれだけ「生きていて」むなしいものなのか、分かっていない。
だが――彼は、倫之助は人間ではないという。自らを。
「他人同士だから何だってんだ。俺は、おまえと対等になりたい。おまえは、いつもいつも人間を見上げている。何かを観測している」
「……ここまで踏み込むのはあなたが初めてですよ。一彦さん」
「悪ぃな。こういうサガなんでね」
諦めたように、倫之助は力なくくちびるの端を上げた。




