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タクシーは、緑の多い坂道を行った。
すでに緑の所々は薄い赤色に染まり、じき紅葉になることを示している。
曲がりくねった坂道の先に、服部家はあった。
土壁が見える前に、タクシーを降りる。
緑の多いこの場所は、すこし肌寒い。
日陰が多いからだろうか。
ひさしく、この空気を吸っていない。
「じゃ、行くか。歩けるか?」
「これくらいなら大丈夫です」
ゆるやかな坂道。
土壁の、かすかなにおい。
10メートルほど進むと、木でできた門扉が表れた。
呼び鈴はない。
それは、今現役を退いた服部家の当主の力が及んでいるに相違ない。
彼はいわゆる感知型の風彼此を持っている。
一彦と同等の力だ。
門扉を抜け、玄関へと向かう。
「お待ちしておりました」
鈴が転がるような声。
いまだ幼い、少女の声。
「ああ――久しぶり、かな……」
「はい。倫之助さま。当主がお待ちです」
薄い青の着物を着た少女――凛子は、服部家の使用人の娘だ。
小学校に通いながら、この屋敷の手伝いをしている、よくできた娘でもある。
美しい黒髪を肩に垂らしながらも、目は菫色をしていた。
彼女も、風彼此使いであることを表している。
「そして、造龍寺一彦さまでしたね? 当主もお会いしたいと申しておりました。……申し遅れました。わたし、藍野凛子と申します。よろしくお願いいたします」
「あ、ああ」
一点の曇りもない大きな菫色の瞳が、一彦を見上げている。
それにたじろいだのか、一彦は微かに圧倒された。
にこりと微笑んだ少女は、そのまま倫之助と一彦を屋敷の中に招き入れた。
むせかえるような、香のかおり。
倫之助は嗅いだことのある香りだが、一彦は眉を寄せた。
慣れていないのだろう。
「陰鬼避けの香です。ただ、効果があるかどうかは分かりません。服部家に代々伝わる香を調香しているのです」
「そうか……」
独りごとのように、一彦は頷いた。だが、確かにこの辺りには陰鬼の気配というものが全くない。
それはそれで、不気味なものだ。
「こちらが当主の部屋です。わたしはこれで失礼いたします」
「ああ、ありがとう。凛子」
「はい。倫之助さま」
頬をあわく染めて、凛子は兵児帯を金魚の尾のように揺らしながら、去って行った。
「ご当主。沢瀉です」
倫之助が襖の前に座ったので、一彦もそれに倣う。
数秒後、入るように促す声が聞こえたので、倫之助は慣れた手つきで、すっと襖を開いた。
そこにいたのは、灰の着流しを着た男だった。
髪は黒い。
あの年齢の二人の息子がいるとは思えない程の黒さだった。
白髪一本ないのではないかと思うほどの。
「お久しぶりです。なかなかご挨拶ができなくて申し訳なく思います」
「いいや、沢瀉の。こちらこそ、半蔵――正成が迷惑をかけている。あれは元気か?」
「それはもう」
「そうだろうな。あれは主君がいて初めて役に立つ代物だ」
自らの息子をこんな言い草をしているが、男の表情は穏やかだ。
だが、一彦も確かに、と思う。
半蔵は倫之助がいて初めて存在を認識できるのではないか、と。
いくら顔がよくても、それだけでは無意味だ、とも。
「ご当主。今日は書庫を見せていただけないかと」
「ああ、あのかび臭い書庫でよければ、いくらでも調べても結構だ」
「ありがとうございます。助かります」
当主の言った言葉のわずかな違和感を倫之助は聞き流したのか、頭を下げた。
一彦もそれを真似て、頭を下げる。
「まあ待て。久しぶりの顔合わせだ。造龍寺君と言ったかな。すこし、この私と話でもしないか。現役を退いてから少々退屈でね」
「ご当主がよければ」
「そうか。すまないな。沢瀉の」
安堵したように表情をゆるませるまだ名も知らぬ当主は、膝に手をあてたまま、もう片方の手で顎を撫でた。
なにかを考えあぐねている様子だ。
「ご当主。保永さんにお子さんが生まれたようですね」
「ああ、そうなんだ。男の子でね」
助け舟を出したのは、無論一彦だった。
倫之助では決してこちらから口を出すことはなかっただろう。
相当可愛がっているのか、自らの孫のことを語り始めた。
「この年になると、もう風彼此使いがどうのと言うことができなくてね。まだ一歳にも満たない子だから、風彼此を使えるかどうかは分からないが、私はどちらでもいいと思っている。保永の時は躍起になっていて、とても悪いことをしたと思っているよ」
「……長男が風彼此を使えないことで、周りから色々と言われていたことは知っていますが」
「そうなんだよ。いつ風彼此使いに目覚めるか誰にも分からないことだ。これから目覚めるかもしれないし、もう一生目覚めないかもしれない。私は、孫ができてからそれももう、どっちでもいいと思っている。どちらにせよ、保永は私の子だ。無論、正成もな」
目を細めるしぐさをしたところを見ると、そのことは保永には言ってはいないようだ。
こちらとしても、軽々しくそれを保永に言え、とは言えない。
これは服部家の問題だからだ。
口出しするのは間違いだろう。
「よかったら、孫と保永――それから花乃にも会ってやってくれ。食事と寝床くらいは用意できる」
「そこまでしていただかなくても――」
一彦が遠慮がちに伝えるが、彼は「会ってやってくれ」の一点張りだった。
倫之助をちら、と見ても、いつもと同じようにぼんやりとその主張を聞いている。
「では、お言葉に甘えて」
その視線に気づいたのか、倫之助は彼の言い分にあっさりと乗った。