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「蘇芳さん。100年前の風彼此使いのことを知ってどうするというんです」
「造龍寺くんが疑問に思うことは当たり前のことだ。突拍子のない話だからね」
エーリクはどこか満足そうに頷いてから、足を組んだ。
彼の空気はどこか異質に満ちている。
だが、だからと言って敵、というわけではない。むしろ、「徹底的な」味方だろう。言うことをきいているうちは。
だからこその異質さなのだろうか。
「先日言ったように、彼を知ることは陰鬼の歴史を知ることに通じる。僕が知ろうとしていることは、まさにそれだ。そして、100年前以前の陰鬼の歴史を知ることだ。そうすれば陰鬼の全滅させる方法が分かるかもしれない」
「どうでしょうか。陰鬼は、ヒトのつらい思いや悲しい思いから生まれた、いわば人間の分身のようなものです。それを全滅させることなんて、ヒトが滅びない限りあり得ないのでは」
倫之助は、背中をまるめてぼそぼそと長々呟いた。
その疑問さえ先読みしていたのか、エーリクは「そうだね」と微笑んだ。
「それはもっともだ。陰鬼自身――それらは因果律。原因がなければそれは起こらない、ということは当たり前の現象だ。けど、それは哲学において起こりうることであり、現実では分からない。人間の可能性というものはそういうものだ。陰鬼を倒すのは人間である。その人間の可能性をできうる限り広げ、限界まで達せられれば因果律はひっくり返る。そうは思わないかい?」
「――蘇芳さんの風彼此はまさにそれですね」
一彦が呟き、じっとにこやかな蘇芳エーリクを見つめた。
何かをのぞき込むように。
それを一身に受けても、エーリクは微動だにしない。ただ、ほほえんでいる。
「そうかもしれないね。まあ、僕のことはどうでもいいさ。きみたちにやってもらいたいことは、100年前の風彼此使いを調べることだ。名前でも、年齢でも、性別でもいい。何せ、能力以外は分かっていないからね。文献を見ても殆どおとぎ話化している」
「おとぎ話ですか。言いえて妙ですね」
「調べ物は苦手なんですがね……」
げんなりと肩を落とす一彦に微笑んだエーリクが、これで話は終わり、と言わんばかりにパイプ椅子から立ち上がった。
「それも仕事だよ。造龍寺くん。それから――このことは他言無用だ。分かっていると思うけどね」
グレーの三つ揃えのスーツを着た蘇芳エーリクの赤い目に、蛇に睨まれた蛙のように固まった一彦は、ぞっと背筋が寒くなった。
この男は、本気でこんなおとぎ話のような事を「ストーリーとしてではなく」真実として信じているのだ。
倫之助の、あの時間を止める芸当を生で見たわけでもないのに、信じている。
ただの紙ぺら一枚だけでのことを。
妄信的と言っても過言ではない。
それは、半蔵を思い起こされた。だが、まだ半蔵の方が可愛い方だ。なにせ、倫之助はこうして今、存在しているのだから。
「一彦さん」
靴音が去ったあと、先に言葉を発したのは意外にも倫之助だった。
赤い眼鏡をかけなおして、スリッパを足にひっかけた。
「あの人の味方をしていれば、当分は安全です。面倒ですが、おとなしく従っておきましょう」
「本当に面倒だな……。だが、おまえの言うとおりだ。逆らえば蝶班はひとたまりもねぇし」
しぶしぶ承知する一彦を確認すると、倫之助はぎこちなく立ち上がった。
まだ体を動かすことに慣れないのだろう。
「半蔵にも言わないつもりか?」
「そうですね。蘇芳さんが誰にも言うなというのなら、ここにいない半蔵も無論含まれるでしょう」
「……温度差すげぇなあ。おまえら」
「そうかもしれませんね。とりあえず、ここから出ましょう。蘇芳さんが調べろと言ったことがヒントです。このビルにはおとぎ話しか存在しない」
「じゃ、どこに行く気だ?」
櫛もとおしていない倫之助髪の毛は、まだぼさぼさのままだ。どうやら、梳かさないまま外出するらしい。
一彦自身も、よれよれのスーツなので言えた立場ではないが。
「まあ、とりあえず服部家にお邪魔しましょう。あそこは古い文献の倉庫ですから」
「あてがあるならそこに行くしかねぇか。って待て。スリッパで外に出る気か」
「いけませんか?」
不思議そうに首を傾ける倫之助に、半蔵の存在の大きさを知る。
病室をくまなく探してようやく、ベッドの隣の棚の中になぜか靴があった。
誰がそんなところに靴を置いたのか知らないが、思い当たる節があったのでそこは深く考えないことにする。
「服も着替えろ。入院着のままじゃ警察呼ばれるぞ」
「そういうものですか……」
どこか感心したようにうなずいた後、縦に細長いクローゼットの中から私服を取り出す。
そして、そのまま着替え始めた。
別に男同士なのだから、着替えを見ても何ともない筈なのだが、一彦はふいに目を逸らした。
「……よし。じゃあ行くぞ。まだ動くの辛いなら、タクシーでも呼ぶか……」
「それはやめたほうが。服部のご当主は車が大嫌いなので」
「面倒だな……。服部の当主ってのは」
「ハイカラなものが嫌いだそうで」
「車はもうハイカラじゃねぇだろ……」
廊下を歩きながら、一彦が愚痴る。
もっともだと思いながら、エレベーターでエントランスへ向かった。
このエレベーターでさえ、服部の当主は苦手なのだろう。
だとしたら、階段で上り下りするのだ。相当足腰が強いのだろう。
「途中まででもタクシーで行くぞ」
「そうします。今の俺の足じゃ、半日かかってもたどり着けないでしょうから」
涼しい風が頬を撫でる。
倫之助が眠っていたひと月、時が動き出した瞬間だった。




