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主のいない狗など、あってはならないことだ。
倫之助は眠ってしまった。
深い眠りに。
もう目覚めないかもしれない、という恐ろしい自覚があった。
風彼此が折れるまでに戦い続けた結果どうなるか、それは火を見るよりも明らかだ。
精神は硝子にヒビが入ったように危うくなり、廃人に近い状態になるか、衰弱死するかのどちらかだ。
「坊ちゃん。あなたはまだ生きなければ。生きて、意味を探さなければいけないのでしょう。あなたはそう言った。それこそが、生きる意味だと……」
半蔵の黒い髪の毛が揺れるのを見つめた人物は、半蔵自身と、もう一人いた。
倫之助の父親、半蔵の「主」――峰次だった。
「旦那様……」
「倫之助の様子を見に来たのだが、眠ったようだな」
「はい。つい先ほど。何か、御用でも」
「お前は、倫之助の事しか考えていないのだな」
しわのある顔がかすかに揺らぐ。
あまり見たことのない、わずかな笑みだった。
「この方は、俺の……たった一人の坊ちゃんですから」
「主人は私の筈だったが、それでいい。お前のような従順な存在が必要なのだから。私の部下は多いが、倫之助にはあまりにも誰もいなかった。孤独は風彼此を鈍らせる」
「承知しております。旦那様」
「そうか。ならばいい」
孤独。
――その孤独を最初に与えたのは峰次だ。
だが、気づいていないのだろう。当の本人は。だが、当たり前なのかもしれない。血のつながらない息子を息子として見るのは。
それを峰次の前で言えるほど、半蔵は劣ってはいなかった。
「心配せずとも、倫之助は明日の朝にでも起きる。ここはそういう場所だ。班長の波動が届く場所なのだからな」
「波動……。風彼此の能力、ですか。あの、いつ気狂いしてもおかしくなさそうな風彼此の」
「そうだ。それを使いこなすことができるのは、班長しかいないだろう。一見優男風だが頭の切れる、恐ろしいほどの力を持った男だよ」
そう言い、峰次は背をむけて最後にこう呟いた。
「倫之助は化物だ。だが、ヒトを貶めることはしないだろう。糸巻ういのようにはならない筈だ。倫之助が……人間に絶望しなければな」
人間に絶望するのは簡単だ。
闇ばかりをみればいいのだから。
そのために、光が必要だ。闇を照らす光が。
遠くなっていく気配。
そして、再び静寂がおとずれた。
自室に戻らなければ、と思う。
ただ、
ただ、ひとつ。
一回だけ。
倫之助に近づき背中を丸め、一回だけキスをした。
ゆっくりと、丁寧に。
かすかな呼吸音が聞こえる。生きているのだ、と思う。
体を起こし、病室を後にした。
「よう。半蔵」
自室の前には造龍寺が立っていた。相変わらず、くたびれたスーツを着ている。
そう思う半蔵も、いつもと同じ藍染めの作務衣なのだが。
「倫之助、目が覚めたって?」
「ああ……。もう知っているのか。だが、また眠ってしまった。旦那様は明日の朝にでも目覚めると仰っていたが……」
「なら信じればいい。俺としても相棒が眠ったままじゃ、どうにもな」
造龍寺は思い出したように胸ポケットをまさぐったが、煙草が入っていないことに気づくと舌打ちをした。
「ああ、そういや切らしてたっけか……。半蔵……は煙草吸わないんだったな」
「吸わないに決まっているだろう。あんな臭いもの」
「まあなあ。鈴衛にもやめろって言われているし、この際禁煙でもするか」
独りごとを呟いた造龍寺は、うなじを掻いてから天井を見上げた。
どこか疲れているような顔をしている。
「疲れているみたいだな」
「そりゃ疲れるだろ。糸巻ういの部下だった存在が、周りにとってどう扱ったらいいか分からねぇみたいだし。猪鹿蝶班も戦々恐々だ」
「そうか」
「半蔵も疲れてる顔してるが……倫之助も目が覚めたっていうし、少しは安心して眠れるんじゃねぇか」
「そうだな」
「今度、またメシでも行こうぜ。鈴衛も誘って」
「ああ。そうだな」
そこで話は終わり、とでもいうかのように半蔵は自室の扉を開け、まだ目新しい部屋の中を見渡した。
すこし疲れたようだ。
造龍寺が言った通り、安心した瞬間に今までの疲れが出てしまったのかもしれない。
今は風呂に入るのでさえ億劫だ。
ふらふらとする足を叱咤して、ベッドの上に乗りこむ。
「……坊ちゃん。あなたは……」
化物と呼ばれて、どんな思いでいるのだろう。
実の父親ではないとはいえ、たとえ――人間ではないとはいえ、半蔵にとってはたった一人の存在だ。
彼を守るとは決して言えない。
ただ――支える存在でありたい。
そうあれたならいい。
月が出ている。
丸い月だ。満月かもしれない。
「坊ちゃん。月というのは、様々な名前があるんですよ」
「ふうん。いいね、そういうの」
何年前だろうか。
ふたりで月見をしたことがあった。たった一回の事だったが。
「なぜですか?」
「いろいろな名前があるっていうことは、いろんな存在になれるってことだろ? 人間は、自分にしかなれないからそういうのって、いい」
彼の黄金色の目は、月と似ていた。
様々な姿に変貌しても、存在はひとつだ。それを知っていて、倫之助はそう言ったのだろう。
だから羨望の目をしていたのだろうか。




