3
おそらくだが、そこに半蔵がいたなら血相を変えて止めていただろう。
だがそこには倫之助を止める「なにか」はいなかったし、なかった。
現に倫之助の顔は青白く、脂汗がにじみ出ていた。
今まで気づかなかったのは、周りの大人たちだった。
倫之助の「実力」というものはないのではないか、と峰次が思うようになったのはいつからだろうか。
見切ったわけではない。
ただ、底の知れない瞳が力が恐ろしかった。
力というものは、貪欲でなければついてこない。
貪欲なまでのそれが今の倫之助だった。
倫之助は「風彼此使いという名の亡霊」にひどく愛されていたのだ。
呼吸の音が五光班に聞こえるようになったとき、あわてた風彼此使いの女性が、倫之助がいる場所に駆け寄った。
「大丈夫で……」
その言葉の最後は、誰にも聞こえなかった。
黄金色の瞳がぎらぎらと、恐ろしいほどに血走っていたからだ。
生気で満ちているのではなく、逆に死をのぞき込んでいるような瞳だった。
虚空に貫かれているういの肢体さえ、目に留まっていない。
「倫之助!!」
五光班の風彼此使いがその目の恐ろしさに体を強張らせている女性に苛立ったのか――いつからそこにいたのかは不明だが、造龍寺が倫之助の名を呼んだ。
「造龍寺。邪魔をするな」
青ざめた造龍寺を一蹴したのは峰次だった。
彼は目を細め、倫之助の荒く呼吸をしている姿をただじっと見据えている。
「ですがこれ以上は危険です!」
「危険になるということは、倫之助がまだ弱いというだけのことだ」
「弱いって、それはあなたが言えることですか!」
「次長になんという口の利き方を……!」
ういの血液が、地面を濡らしてゆく。
このまま血を流し続ければ、このヒトの形をした陰鬼は間違いなく死ぬだろう。
だがこのまま黙って死んでいくことはない。
造龍寺とてそれくらいは分かっている。
このままだと本当に風彼此が「折れる」危険性があった。
折れてしまえば、風彼此使いの精神が崩壊し廃人となる可能性が高い。
「このままでは折れてしまいます!! 倫之助! もうやめろ!」
「……造龍寺……さん?」
気管支炎のような呼吸をしている倫之助のくちびるから、かすれ切った声が零れた。
その直後、ういを串刺しにしていた虚空が徐々に消えていく。
袋に入った砂利が散らばったような音がして、ういの肢体が地面の上に崩れた。
「ぐ……、ごほ……っ」
血を吐き、無様に地面に這いつくばるういを倫之助はかすれた黄金色の瞳で見下ろした。
彼が一歩足を踏み出したのち、五光班の内2人の風彼此使いが弱ったういへ、飢えた獣のようにそれぞれの風彼此を突き立てる。
肉を裂くリアルな音が聞こえる。
「……倫之助。大丈夫か?」
「ああ……はい」
「もう少しで折れるところだった。危なかったな」
「……糸巻さんはまだ死んでません。あの二人、退避させないと危ないですよ」
かすれた呼吸はまだ収まっていない。
鋭い眼光で造龍寺、倫之助を見据えていた峰次が口を開く。
「古林、飛鳥、下がれ」
「……ですが! 今を逃せば……」
血しぶきが、舞った。
男性の方の風彼此使いの腕が吹き飛んだのだ。
右腕を正確に狙われ、切断された腕は峰次の目の前に風彼此ごと土に突き刺さった。
「う、うあああああ!!」
絶叫が広く、そして廃退とした空間に響く。
ゆら、と影が揺れ、ういの体がゆっくりと起き上がった。
その体は穴だらけで、血がとめどなく流れている。
髪の毛は血で汚れ、固まり、美しかったそれはすでに見る影もない。
「きゃ……!!」
鎌を軽く振ったういは、女性の風彼此使いを瓦礫の上に吹き飛ばした。
瓦礫に埋もれた彼女の体は強く打ち付けられたせいか気を失い動かなくなった。
「……仕方あるまい」
救護班はすでに動いており、肩ごと切断された男性と、気絶した女性を運び出した。
ういはあえてそれを見送り、血を流しながら倫之助のいる場所へゆっくりと、ゆっくりと向かっている。
倫之助の呼吸音はまだ収まっていない。
このままでは、楊貴妃を握ることすらできなくなるかもしれない。
「……っ」
倫之助の咳き込む音が聞こえるが、峰次は一瞥しただけだった。
彼の指の間からは、血が流れている。
吐血したのだ、と造龍寺が気づいた時には倫之助は地を蹴っていた。
「倫之助! やめろ!」
当然と言えば当然か、倫之助の足は止まらない。頼りなく歩いているういを突き飛ばすように、倫之助は彼女の腹に楊貴妃を埋め込んだ。
血が椿の花のように散り、倫之助の頬を、髪を汚す。
彼女の体は地面の上にあえなく放られた。
「俺が……」
ぼそぼそと呟かれる言葉は、誰の耳にも届いていない。
けれど倫之助は無意識のうちにこう呟いていた。
「俺が殺さなければ……俺が……」
口から血を吐きながら、黄金の瞳を鈍く輝かせる。
その光景はすさまじいものだった。
咳をするたびに血が飛び散る。
亡霊のようにたたずむ倫之助を止めるものは誰もいなかった。
「り……倫之助……」
彼らの目には、倫之助の姿は映っていない。
大蛇――カガチが、目の前に在ったのだ。