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ごうごうと煙が空を汚している。
倫之助はただ、それを見上げた。
消防士たちは、みな、懸命に火を消そうとしている。
「倫之助!」
造龍寺の声に、はっと煙から視線を逸らせた。
息をきらせて走ってきた彼は、煤でほおが汚れている。
「どうしたんですか、これは」
「糸巻さんだ」
「班長が、これを?」
「ああ。間違いはない。俺の目の前で火をつけたんだ」
「他の班の人たちはどうしたんですか」
「……今現在確認中だが、少なくとも3人死んだ。重症が10人だ」
「造龍寺の妹さん……鈴衛さんは」
「あいつなら、今ビルの中にはいない。幸運なことにな」
水雪と鵠はどうなっているのだろうか。
ひどい音をたててガラスが割れる音が響き続ける中、砂利を踏みしめる音が聞こえた。
「鵠、水雪! 無事だったか」
「ええ、何とか。にしてもなんで班長が……」
鵠に肩を借りている水雪のほおにも、煤がついていた。
それをぐいっと腕でぬぐい、呆然とした表情でビルを見上げる。
「狂った風彼此使いの末路が、これか」
重い、低い声。
聞き覚えのありすぎる声だった。
沢瀉峰次。倫之助の父親の声。
久しぶりに見るその姿は、威圧的だった。
スーツを着込み、手には刀を模した金獅子という名の風彼此を握っていた。
「お久しぶりです。父さん」
「ああ」
峰次はこちらをちら、と見て相槌を打っただけで、燃え盛るビルの入り口に歩いていく。
「沢瀉次長! こちらは危険です!」
「知っている」
煙がかかるかかからないかの距離で、細く鋭い、鷹のような目でビルを見上げた。
倫之助の背筋が凍るような、熱気。
「糸巻うい。これがヒトを裏返した末路だ。倫之助」
「裏返した……」
「欲にまみれ、ヒトの道を外れた風彼此使いは、敵となる。よく覚えておけ。糸巻ういが身を挺して証明した事実を」
それは暗に陰鬼とはヒトから生まれるのだ、と言っているようだった。
「陰鬼は、ヒトから生まれる、と?」
「そうだ。昔から、鬼や妖といったものは、目には見えぬ畏怖や恐怖から生まれたものだ。何も、突発的に出現したわけではない。人間の醜い欲求や感情がなくならない限り、陰鬼は死なぬ。それを清らかな刃で絶つのが、風彼此使いだ」
黒い煤が舞う。
だが、それは煤ではなかった。
よく見るとそれは、羽だった。ふわっとそれは舞って、倫之助の手の甲に触れた直後、それはかすかな痛みとなった。
反射的に手の甲を見ると、やけどのような跡ができていた。
「狂った風彼此使いは、今までにいくつか例がある。秘密裏にされていたことだがな。それが――完全ヒト型の陰鬼だ」
「……!!」
半蔵が言っていた、赤いプールのような場所に閉じ込められていたヒト型の陰鬼。
あれは、本当にもとは人間だったのだ。
「狂った原因は……倫之助。お前にあるようだな。だが、いい。陰鬼の”出所”が判明したのだから」
「消火にはまだ時間がかかるようです。次長」
強張った顔をした見知らぬ女性が、峰次に問いかけるように伝えた。
「そうか。いたし方あるまい。このまま、戦うしかなさそうだ。倫之助。お前も参戦しろ。造龍寺」
「はい」
かすれた声で造龍寺が返事をすると、峰次が顎を外側へむけた。
「お前は怪我人の運搬を手伝え。ここは五光班と、倫之助が引き受ける」
「承知しました。水雪、動けるか」
「勿論です」
「分かった。鵠、怪我人の援護を優先しろ。いいな」
「はい」
五光班は峰次を合わせて3人。倫之助を加えてでも4人だ。
それだけで敵うのかさえ分からない。
相手はもともと蝶班の班長の「糸巻うい」だ。彼女のもとからあった力も分からない。
「……父さん。ヒト型の陰鬼の力は、4人で太刀打ちできるんですか」
「さあな。4人全員でかかれば敵うかもしれないし、全員殺されるかもしれない」
「そうですか。まあ、いいです。やってみないと分からないですから」
自身の風彼此、楊貴妃を手に取った直後、それは舞い降りた。
糸巻うい「だったもの」。
彼女は白い肢体をさらけ出し、その手には死神の鎌のようなものが握られていた。
はだしの「それ」は、茶色のゆるやかなカーヴを描く髪の毛を払って、微笑んだ。
ぞっとするような、ヒトにはできないほどの、美しい笑みだった。
金獅子を構えた峰次を皮切りに、他の2人もそれぞれ日本刀を携えた。
「来ます!」
パンツスーツを着込んだ女性が叫ぶ。
その直後、空気を切る音が聞こえた。ひゅっ、と音がして倫之助はとっさに地に膝をついて伏せる。
それは的確に、倫之助を狙っていた。
「やはり、陰鬼になってからもお前に執着するのだな」
峰次は感心したように頷いてみせた。
「彼女はなぜ俺に執着するんです」
「それはお前が一番分かっている筈だが」
無駄口は叩くな、とでもいうかのように峰次は吐き捨てた。
彼女は鎌を軽々と片手で持ち上げ、ひょいと軽く振った。
それに呼応するかのように大きな破裂音が聞こえた。
一階のエントランスの扉が弾け飛び、ガラスがこちらに飛んできたのだ。
その破片は細かで多く、倫之助たちはよけきれずに頬や腕を切った。
「どんな能力なのか、分からないな……」
ぼそりと呟いた倫之助に応えるように、彼女は笑った。
そして風のようなスピードで倫之助の目の前に優雅に降り立った。




