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「……っ」
鈍い痛みが右腕を襲う。
捻りあげるように、半蔵が右腕をつかんでいる。
「半蔵。痛い」
彼の部屋に連れ込まれ、まるで能面のように表情のない半蔵を見上げた。
決して倫之助には向けない、ぞっとするほど冷たい目。
「あの女……」
ぎし、と歯ぎしりする音がする。
あの女とは、糸巻ういのことだろうか――と、ぼうっとする頭で思考した。
「坊ちゃんを何だと思っているんだ」
「離せ、半蔵」
倫之助の「命令」に反して、半蔵はここにいないういをただひたすらに憎んでいる。
ここに倫之助がいるのに、彼は倫之助を見ていない。そう感じるのは、間違いではないだろう。
「坊ちゃん」
――そして、初めて黄金色の瞳を見下ろした。
「あの女に近づかないでください。絶対に」
「それは無理だろ……。蝶班の班長なのに」
「俺が何とかします」
半蔵は自分がいま、何をしているのか分からなかった。
主である倫之助の腕を捻りあげて――痛がっているのに、それを離そうともしない自分は、一体どうなっているのだろう。
自分がいま、いつもよりも冷静であることは理解している。
この感情は何なのだろうか。
怒りなのか、憎しみなのか。
それが分からなくなっている。
痛みで呻いているというのに、黄金色の瞳が一向に揺らがない。
彼の意思が揺らぐことなど、今まであっただろうか。
いつも彼は一歩足を引いたところで人類を、そして自分自身を見ている。半蔵のことでさえも。
――彼女が嘲笑っている――。
「半蔵」
「はい」
「俺のせいか?」
「え……」
右手はだらりと力なく垂れさがっている。折れてはいないが、痛むだけだ。
黄金色の瞳が、半蔵の赤茶色の瞳をまっすぐ見つめている。
「俺のせいで、おまえは混乱しているのか?」
「混乱? まさか。俺はいま、特別冷静ですよ」
「俺のせいか、と聞いているんだ」
赤い眼鏡の奥の黄金色の光が、つけた明かりと反射する。
倫之助はいつものようにぼんやりと、問いただしていた。
それでも――どこか今までと違う「なにか」を半蔵は感じていた。
それは「恐怖ではない」ものだった。
倫之助からは、いつも何かしら「恐怖」を感じていた。
だが、今は全くそれがない。
穏やかだった。
どこまでも、湖面に手を触れることがないように。ただ静かだ。
責めている言葉を半蔵は理解できていなかった。
無論、倫之助は彼を責めてはいない。
逆に彼が倫之助を責めているのだ、と気づくのに時間がかかるだろう。
現在進行形で、いまだ半蔵は気づかない。
「坊ちゃんを傷つける人間は許さない」
ふら、と倫之助の足が揺れる。近くにあった壁に体を押されたのだ。
赤茶色の目が暗く、黒ずんでいることに倫之助はとっくに気づいていた。
だから、されるがままにされていたのだ。
もしかすると、半蔵は倫之助を殺すかもしれない。
そんな馬鹿げた幻想をいだくまで。
もう、倫之助は「離せ」とは言わなかった。
無駄だからだ。
今の半蔵に倫之助の言葉は遠すぎた。
壁に縫い止められた体は、純粋な力では半蔵にかなわない。
よって、ここから抜け出すことも蹴り飛ばすこともできない。
ただ、沈黙を守ることしかできなかった。
それを快く思っていなかった半蔵は、壁に自分のいらだちを拳で叩き付けた。
びりびりと背中を走る振動は、心地の良いものではない。
「あなたのせいです。すべて」
「そうか」
静かに頷く。
壁に縫い付けられたままの右腕がしびれてくる。
もっとも力を抜いているし、力ずくで壁の押し当てているのは半蔵だから疲れは生じない。
「あなたの一滴の血さえ、誰かのものになるのが……許せない」
半蔵は苦しんでいるようだった。
けれど、倫之助は何に苦しんでいるのか理解できていない。
「おまえは、どうしたいんだ?」
純粋な疑問が浮かぶ。
彼は――半蔵は、何をどうしたいのだろう。
倫之助の血を誰かに「捧げる」ことが許せないのなら、どうしろというのか。
ぐっと半蔵はくちびるを噛んだ。血が、顎をつたう。
なにかを耐えるように、彼はつかんだ腕に力をさらに込めた。
骨がきしむ音を聞いた気がする。
それでも倫之助の表情は変わらない。
「あなたが……何もわかっていないから……。あなたが、ご自分のことを何も分かっていないから」
「自分のことを、か……。そうかもしれないな。俺は意味を見出すだけで、俺自身の事は何も知らない。どこから来たのか、なにから生まれたのかも。囚われているのは、俺もおまえも同じだ」
鉄檻のない、囚人のようなものだ。風彼此使いは。
戦うことを強いられ、落ちぶれればそれさえ政府は取り上げる。
脱落した風彼此使いの自殺率は、高い。
力を持っていることを自負しているのに、風彼此を今も使えるのに、戦意を表せばすぐにその手に出現するのに、それを世界は許さない。
弱い精神を持ったものは力のやり場に疲弊し、自死を選ぶのだ。
「その囚われた状態で、生き延びるにはどうすればいい? 半蔵」
「……戦うしか……道は残されていません」
「戦うことがおまえの意味なのか? その他に、おまえの言う幸福というものはないのか」
「幸福……」
「俺は、おまえがいればいい。別に、他には何もいらないんだ。そこに意味があるなら」
半蔵の瞳の色が、変わる。
まるで、まぶしいものを見るかのように細めたのだ。
小学生の頃から一緒にいた半蔵が、倫之助の隣にいるのが普通だった。
それが当たり前だった。
半蔵の心がきりきりと音をたてて軋む。
そして――ようやく、彼の腕を離した。




