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月牙の剣【本編完結済】  作者: イヲ
上弦の月
31/112

「……っ」


 鈍い痛みが右腕を襲う。

 捻りあげるように、半蔵が右腕をつかんでいる。


「半蔵。痛い」


 彼の部屋に連れ込まれ、まるで能面のように表情のない半蔵を見上げた。

 決して倫之助には向けない、ぞっとするほど冷たい目。


「あの女……」


 ぎし、と歯ぎしりする音がする。

 あの女とは、糸巻ういのことだろうか――と、ぼうっとする頭で思考した。


「坊ちゃんを何だと思っているんだ」

「離せ、半蔵」


 倫之助の「命令」に反して、半蔵はここにいないういをただひたすらに憎んでいる。

 ここに倫之助がいるのに、彼は倫之助を見ていない。そう感じるのは、間違いではないだろう。


「坊ちゃん」


 ――そして、初めて黄金色の瞳を見下ろした。


「あの女に近づかないでください。絶対に」

「それは無理だろ……。蝶班の班長なのに」

「俺が何とかします」




 半蔵は自分がいま、何をしているのか分からなかった。

 主である倫之助の腕を捻りあげて――痛がっているのに、それを離そうともしない自分は、一体どうなっているのだろう。

 自分がいま、いつもよりも冷静であることは理解している。

 この感情は何なのだろうか。

 怒りなのか、憎しみなのか。

 それが分からなくなっている。


 痛みで呻いているというのに、黄金色の瞳が一向に揺らがない。

 彼の意思が揺らぐことなど、今まであっただろうか。

 いつも彼は一歩足を引いたところで人類を、そして自分自身を見ている。半蔵のことでさえも。

 

 ――彼女が嘲笑っている――。



「半蔵」

「はい」

「俺のせいか?」

「え……」


 右手はだらりと力なく垂れさがっている。折れてはいないが、痛むだけだ。

 黄金色の瞳が、半蔵の赤茶色の瞳をまっすぐ見つめている。


「俺のせいで、おまえは混乱しているのか?」

「混乱? まさか。俺はいま、特別冷静ですよ」

「俺のせいか、と聞いているんだ」


 赤い眼鏡の奥の黄金色の光が、つけた明かりと反射する。

 倫之助はいつものようにぼんやりと、問いただしていた。

 それでも――どこか今までと違う「なにか」を半蔵は感じていた。

 それは「恐怖ではない」ものだった。

 倫之助からは、いつも何かしら「恐怖」を感じていた。

 だが、今は全くそれがない。

 穏やかだった。

 どこまでも、湖面に手を触れることがないように。ただ静かだ。

 責めている言葉を半蔵は理解できていなかった。

 無論、倫之助は彼を責めてはいない。

 逆に彼が倫之助を責めているのだ、と気づくのに時間がかかるだろう。

 現在進行形で、いまだ半蔵は気づかない。


「坊ちゃんを傷つける人間は許さない」


 ふら、と倫之助の足が揺れる。近くにあった壁に体を押されたのだ。

 赤茶色の目が暗く、黒ずんでいることに倫之助はとっくに気づいていた。

 だから、されるがままにされていたのだ。

 もしかすると、半蔵は倫之助を殺すかもしれない。

 そんな馬鹿げた幻想をいだくまで。


 もう、倫之助は「離せ」とは言わなかった。

 無駄だからだ。

 今の半蔵に倫之助の言葉は遠すぎた。


 壁に縫い止められた体は、純粋な力では半蔵にかなわない。

 よって、ここから抜け出すことも蹴り飛ばすこともできない。


 ただ、沈黙を守ることしかできなかった。

 それを快く思っていなかった半蔵は、壁に自分のいらだちを拳で叩き付けた。

 びりびりと背中を走る振動は、心地の良いものではない。


「あなたのせいです。すべて」

「そうか」


 静かに頷く。

 壁に縫い付けられたままの右腕がしびれてくる。

 もっとも力を抜いているし、力ずくで壁の押し当てているのは半蔵だから疲れは生じない。


「あなたの一滴の血さえ、誰かのものになるのが……許せない」


 半蔵は苦しんでいるようだった。

 けれど、倫之助は何に苦しんでいるのか理解できていない。


「おまえは、どうしたいんだ?」


 純粋な疑問が浮かぶ。

 彼は――半蔵は、何をどうしたいのだろう。

 倫之助の血を誰かに「捧げる」ことが許せないのなら、どうしろというのか。

 ぐっと半蔵はくちびるを噛んだ。血が、顎をつたう。

 なにかを耐えるように、彼はつかんだ腕に力をさらに込めた。

 骨がきしむ音を聞いた気がする。

 それでも倫之助の表情は変わらない。


「あなたが……何もわかっていないから……。あなたが、ご自分のことを何も分かっていないから」

「自分のことを、か……。そうかもしれないな。俺は意味を見出すだけで、俺自身の事は何も知らない。どこから来たのか、なに(・・)から生まれたのかも。囚われているのは、俺もおまえも同じだ」


 鉄檻のない、囚人のようなものだ。風彼此使いは。

 戦うことを強いられ、落ちぶれればそれさえ政府は取り上げる。

 脱落した風彼此使いの自殺率は、高い。

 力を持っていることを自負しているのに、風彼此を今も使えるのに、戦意を表せばすぐにその手に出現するのに、それを世界は許さない。

 弱い精神を持ったものは力のやり場に疲弊し、自死を選ぶのだ。


「その囚われた状態で、生き延びるにはどうすればいい? 半蔵」

「……戦うしか……道は残されていません」

「戦うことがおまえの意味なのか? その他に、おまえの言う幸福というものはないのか」

「幸福……」

「俺は、おまえがいればいい。別に、他には何もいらないんだ。そこに意味があるなら」


 半蔵の瞳の色が、変わる。

 まるで、まぶしいものを見るかのように細めたのだ。

 小学生の頃から一緒にいた半蔵が、倫之助の隣にいるのが普通だった。

 それが当たり前だった。


 半蔵の心がきりきりと音をたてて軋む。

 そして――ようやく、彼の腕を離した。

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