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かすかな腕の痛みを感じて、腕を持ち上げる。
血を抜かれたのだろうか。四角い小さな綿のテープで貼り付けられていた。
そういえば、ういが倫之助の血を欲しがっていた。
おそらく、彼女に血を渡されたのだろう。
なんとなくそう思う。
別に構わないのだけれど、マシな使い方をしてほしい。
「そろそろ夕食の時間ね。もう起き上がってもいいわよ」
「さあ坊ちゃん、手を」
「いいよ」
手を差し出されるが、断る。
ゆっくりと起き上がって、眩暈がしないことに安堵した。
養護室から出てしばらくすると廊下に造龍寺が立っていた。
「よう、気分はどうだ?」
「そこそこいいですよ」
「そうかい。まさか熱中症で倒れるとはな」
「まあ実際、そのまさかで倒れたことになるとは思いませんでしたけどね」
「そりゃ、とんだ災難だったな」
食堂へ向かいながら歩いていたが、ふいに造龍寺が立ち止まる。
倫之助と半蔵もつられて立ち止まった。
不機嫌そうな表情をしている彼は、首の後ろを掻いてから――ため息をついた。
「どうしたんですか。造龍寺さん」
「いや。どうも嫌な予感がしてな」
「――造龍寺さん。あなたの百花王の能力って――」
「ああ、教えてなかったな。前も言っただろ。星を見たときに、予感がするって」
「はい」
「俺の百花王は、予感が的中するっつぅか、俺にもよく分かっていないんだが陰鬼の存在を感知するってところだな」
「それはまた、難儀な能力ですね」
「まあな。だが事前に準備することもできるし、悪い事ばかりじゃねぇが。陰鬼は、明日出現するようだ。場所は……紫剣総合学園前」
紫剣総合学園。
たしか今は休校中の筈。作業員以外、誰もいない。一般人が襲われる確率が高いということだろう。
一般人に陰鬼は倒せないことは、日本の誰しもが知っている事項だ。
「一般人が襲われる可能性がありますね。明日、朝から行った方がいいかもしれません」
「そうだな。メシ食ったら、糸巻さんに報告しておくか」
食堂には、何人かの職員と風彼此使いが座っていた。
そこに、天女と戦った時一緒にいた水雪と鵠が食事をしている。
「あ」
三人に気づいたのか、ポニーテイルの水雪が手を軽く振った。
「こっちきなよ」
「水雪。もう体はいいのか?」
造龍寺が隣にきて話しかけると、彼女は万人受けする笑顔で「もう平気だよ」と言った。
今晩の食事は、鶏のから揚げらしい。
「あ、倫之助くん。聞いたよ、倒れたんだって?」
「ええ、まあ……」
顔をあげた鵠が、何でもないように問う。
誰が周りに喋ったのか分からないが、人の噂というものはあっという間に広がるものだ。
いったんその場所から離れて夕食を取りに行く。
調理番の、年を重ねた女性にも、あんた、倒れたんだって?と聞かれた。
あいまいに返事をして、お盆を机の上に置く。
「あのおばちゃんにも聞かれたみたいだね?」
「あの人、噂話に敏感だからねー」
鵠と水雪は呆れたように笑った。もしかすると原因はあの女性なのかもしれない。
「冷めないうちに食べましょう。坊ちゃん」
いただきます、と呟いてから揚げに箸をつけた。
「肉汁がおいしいわー」
「女子が普通、肉汁がうまいとか言うか? 水雪」
「うるさいなあ。私は肉が好きだって言ってるでしょ。つまり、肉汁も肉のうち」
「意味わかんねえ」
から揚げをおいしそうに頬張りながら、水雪と鵠が言いあっている。
それをぼんやりと見つめている倫之助は、箸を使っていてもどこか上の空だった。
「坊ちゃん?」
「え? ああ、うん」
生返事をして、機械的に動いていた箸を止める。
心配しているということは分かっていた。
「大丈夫だよ半蔵。別に、なんともない。……っ」
右腕――。血が抜かれたであろう場所が、じわっとした痛みが生まれる。
血を抜かれただけではないのかもしれない。
何か薬物でも投与されたのだろうか。
いや、熱中症か貧血で倒れたのだから、何か――例えば点滴をしていてもおかしくはない。
「坊ちゃん!? どうしたんですか? 腕、痛いんですか」
「いや……。別に」
「見せてください!」
「うわっ」
右腕を乱暴に引っ張られて腕をまくられる。それをぎょっとしたような目で見られ、どこかいたたまれなくなった。
「……注射? まさか……」
「点滴すれば、普通は痛むだろ。何でもないよ」
「点滴? 点滴なんて、先生はしてなかったですよ」
「……じゃあ採血でもしたんだろ」
「採血……。まさか、糸巻さんが」
険しい表情で、ういの名前を口にする。
だが、琴子が採血をしただけなのかもしれない。いちいち事情聴取のようなことをするのも面倒だ。
「……糸巻さんっていえばさ」
むりやり静寂を破るように、水雪がくちびるを開いた。
その声色は、先ほどよりもずっと小さく、ないしょ話をするかのようだ。
「最近、おかしいよね。部屋にいない日も多いし……。どこにいるんだろ?」
「さあなぁ。あの人のことは俺、よく分かんねぇし」
「でもさ、鵠。私、見たんだ。私たちが住んでる居住区以外にも地下室があって、糸巻さんがそこに向かうところ」
半蔵の顔がかすかに強張ったのを、倫之助は見逃さなかった。
だが今、問いただすことは危険だろうと、口をわざと噤む。
「なんだよそれ」
鵠は馬鹿らしそうに笑い、お盆をもって片づけに行ってしまう。それを追いかけるように、水雪も席を立つ。
「じゃ、またね。お休み」
小走りに鵠を追いかけ、姿を消した。