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黒い霧が倫之助に吸い寄せられたときと同じような感覚だ――。
あの時も暑くて暑くて、気が狂いそうだった。
「また……きみか」
「ずいぶんな言い草だね? まあ、いいけど」
倫之助は、またごつごつとした洞窟の中にいた。
どこか呆れたように呟く女は、肩をすくめながら立ち上がる。
「半蔵って子、いい子だ。キミみたいな化物を気にかけてくれているんだから」
「化物か。言いえて妙だね」
「私はキミだよ。だから、私も化物。最も、キミのほうが化物に似てるかな。キミの方が人間と接触しているからさ」
「どっちでもいいよ。別に」
自らが化物だと言われることに、抵抗はなかった。
自覚していたということもあるし、幼い頃に一人で陰鬼を倒したとき、それが大型だったというだけで、周りの大人たちから「お前は化物だ」という目をされたことがある。
それに、背中の蛇のような痣も、その要因だろうか。
「ふうん。キミってさ、いつもそうして何にも興味ないふりしているけど、本当は違う。人間というのは、つながりがなくては生きていけない。けれど、キミはそれを切断している。そう――キミの千代の冠のようにね」
「あえて、と言いたいのか」
「そう。あえてシャットダウンして、他の人間のつながりを絶っている。それはキミが弱いからだ」
「……そうかもね」
「風彼此使いとしての腕は一流だ。でも、人間性が欠落している」
「人間性、ね……」
倫之助はさして興味なさそうに聞き流す。
まるで「人間性」という存在さえ興味ないとでもいうかのように。
「だから、私が生まれた。欠落した人間性。それが私」
「だと思ったよ」
「なんだ。知ってたんだ。つまらない」
赤い髪の女は、くちびるを尖らせてつまらなそうに再びごつごつとした岩に座った。
「知っていたというか、そうだろうなって思っただけだけどね。ところで、きみに聞きたいことがあるんだけど」
「なに?」
「ここから出る方法なんだけど」
「そんなの、私が出してあげるしか方法はないよ。だって、ここは私の領域だから。ここには陰鬼もいない。だから戦う意味も必要もない。生きている意味も探さなくていい」
「……今更、きみと口論することもないだろうね。きみが――俺の人格の一つが意味を否定したとしても、俺という存在は意味を探す。きみがどう言おうと」
「そう。まあ、いいよ、別に。意味を探したいなら探せばいい。でも、知ることとなるだろう。知れば知る程、求めれば求める程、きみは絶望の、失望の底に落ちるということをね」
女は、ふっと笑い、底の知れぬ黄金色の目で倫之助を見据えた。
絶望、失望の底。
それは案外近いのではないか、と倫之助は思考する。
彼の心の底に感じている虚無感。
パズルの最後の一ピース。
完全に抜けきってしまったそれは、どこを探しても、ない。
そういう星のもとに生まれてしまったのだと、倫之助は思う。
だからこそ、もがくことをやめた。
諦めたのだ。
諦めという名の甘い蜜を知った男は、もう、その底なし沼から這い上がることはできない――。
「……はぁ」
ため息に近いような声を聴いて、半蔵は椅子から立ち上がった。
「坊ちゃん! 気づかれましたか!?」
「あ、ああ、うん」
もう、あの異常なまでの暑さはなくなっていたが、その分体が疲れ切っている。
立ち上がれないほどのその疲れは、すぐに去ってくれるものではなかった。
すこし、涼しい場所だ。
「先生によると、熱中症だっていう話でした」
「そうか。半蔵、今何時だ」
「ええと……。18時ですね」
ここは機関ビルの中の保健室のような場所らしいが、だいぶ広い。
ベッドも20床程あるし、天井も高かった。
窓が見える。
おそらく、2階か3階だろう。外は薄暗いが、もう少しで夜の闇に覆われるはずだ。
「すこし涼しすぎませんか。先生、冷房を――」
「ああ。ごめんね。気づかなかったわ」
カーテンを開けて顔を出した、半蔵が「先生」と呼んだのは、40代後半の女性だった。
おそらく、医者だろう。
優しそうな顔をしている。清潔感のある黒い髪の毛をサイドに縛っていた。
「まだ起き上がらない方がいいわ。血圧も低かったし、熱中症と貧血が併発したのかもしれないしね」
「……分かりました」
素直にうなずくと、女性は安堵したように微笑んだ。
それから、何か気づいたように手を口に当てる。
「あ、申し遅れました。私、このビルで医師をしている、金守琴子と言います」
「沢瀉倫之助です」
「あなたの事は、半蔵くんからよく聞いているわ」
「……そうですか」
「半蔵くんとは、15年くらいのつきあいなのよ。このビルにいた時くらいかしら」
ね、と首をかたむける琴子に、半蔵はまるで尻に敷かれた男のように、肩をあげた。
おそらく、怒らせたら恐ろしいのだろう。
「へえ、半蔵、このビルにいたことあったんだな」
「はい。沢瀉家にお世話になる前に、5年ほど。ケガをした時、よく先生にお世話に……」
「そうなのよ。半蔵くんはいつも無理をしてケガして帰ってきたわ。全く、陰鬼に何も考えないで突っ込んでいくから……」
「も、もういいじゃないですか。先生。今は違うんですから」
時間がたったせいなのか、冷房が弱くなったからなのか分からないが、体がようやく軽くなってきた。
「まだだめよ」
起き上がろうとした倫之助を、笑顔で制す。
なぜかばれて、彼は再びベッドの上に全体重を乗せた。