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それは快楽、といっても過言ではない。
喉が知らず知らず鳴る。
(超えてはならない。)
耳元で囁かれたような、違和感。
はっと顔を上げる。
今、何を考えていたのだろう。
「……え?」
そこに、赤い髪の女が立っていた。
半蔵の後ろ。
緋色の振袖を身にまとった女は、倫之助と同じような顔をしていた。
「お前は……」
「――私は私。名もない、ただの亡霊。どこにでもいて、どこにもいない。ただの――意識の塊」
「意識……坊ちゃんの意識か?」
「そう。倫之助の意識に芽生えた、もう一つの倫之助。それが私」
半蔵は、倫之助を守るようにベッドの前に立った。
その意図をくみ取った彼女は、ふっと微笑む。
「何も、取って食おうとなんてしない。倫之助がいなくなったら私も消滅するのだから。まあ、消滅しようがしまいが私にとってはどうでもいい。今日はただ、忠告をしに来ただけ」
「……忠告?」
「あまり、倫之助に固執しない方がいい。痛い目を見たくなかったらね」
黄金色の瞳がすうっと細められる。
彼女――いや、倫之助の意識は、半蔵を否定しているのだろうか。
そうではない。
すぐに思い返す。
痛い目を見たって、構わないのだ。
たとえ、どんなことがあっても、半蔵は彼の傍にいると決めているのだから。
倫之助が否定しても拒絶しても、それは変わらない。
「キミだって、うすうす気づいているんじゃない? 倫之助が、人間じゃないんじゃないかってことくらい」
「……それは」
人間ではない。
突飛なことだと笑える程、倫之助のことを知らないわけではない。
風彼此使いとしては優秀だと周りから思われているだろう。
だが人間性として、どこかに欠陥がある。
パズルのピースが、ひとつだけ欠けてしまっているかのように。
それはおそらく、探しても探してもどこにもない。この世のどこにも。
それでも、それだけで人間ではない、と言い切れることはできない。
彼から発せられる「恐怖」は、陰鬼を目の前にした時と同じだったのだ。
純粋な、一滴の不純物のない恐怖。何かを取られるかもしれないとか、殺されるかもしれないとか、そういったものではない。
言葉では言い表せない程、澄み切った恐怖がある。
それが――糸巻ういの言った、完全ヒト型とおなじ「波動」というものなのだろう。
「人間ではなくても、俺はこの方のお傍にいる。それこそが、俺自身の意味だ」
「意味ね……。ヒトは、意味なんてなくても生きていける。すべては――虚無。虚無が世界を支配している。誰もがうつろを抱え、誰もが満ち足りていないのは、その証拠」
「意味があってはいけないのか。人間が意味を探すことなど、無意味だというのか?」
「そうだ」
彼女はきっぱりと発言した。
黄金色の目は、哀れなものを見るような色をしている。
「意味を求めてはいけない。知れば知る程……求めれば求める程、人間は絶望する。失望する。真理に手を出してはならない。倫之助のようになりたくないならね」
「どういう……ことだ」
「――半蔵……?」
まるで水をかけられたような衝撃が走る。
ベッドがある真後ろを見ると、倫之助が起き上がろうとしていた。
「坊ちゃん!」
背中を腕で支えて起き上がらせたときには、既に赤い髪の女はどこにもいなかった。
存在が掻き消えてしまったように、完璧にいなくなっている。
「誰かと話していたか」
「いいえ」
「そうか。……そういえば……ここは」
不思議そうに、原色でまとめられた部屋をきょろきょろと見まわした。
「え……っ! ええっと……こ、これは……その」
「随分と派手な場所だな」
倫之助はここがいわゆる「ラブホテル」ということを知らないのだろう。
そこまで視野が広くなかったのが、幸いした。
「……お加減はいかがですか?」
「だいぶいいよ。ここまで運んでくれたのか。悪かったな」
「いいえ。こう見えて力はありますから。ですが、まだお顔の色が優れません。もう少しお休みください。俺、コンビニ行ってスポーツドリンク買ってきます」
「いい。こういう原色ばっかりのところにいたら、余計具合が悪くなる。立てるし、タクシーを呼べば苦じゃない」
ベッドから立ち上がるが、倫之助の体にはまだ力が入っていなかったのか足元がふらつく。
思わず肩を抱いて、倒れるのを防いだ。
「だ、大丈夫ですか坊ちゃん。やっぱりまだ休んでいたほうが……」
「大丈夫だって。少しふらついただけだ。それより、タクシー呼んでくれ」
「……わかりました。すこし、お待ちください」
ラブホテルを出てから数分でタクシーが来た。
よほど心配なのか、倫之助の隣に半蔵が座る。
「どちらまで?」
「対陰鬼機関ビルまで」
「ああ、風彼此使いの方でしたか」
風彼此使いを乗せたことが嬉しかったのか、運転手は機嫌がいいようだった。
「それにしても、毎日暑いですねえ。そろそろ暑さも収まってほしいですよ。本当に」
倫之助の頭の中は、ほとんど朦朧としていた。
半蔵には大丈夫だと言っていたが、意識がまるで引きずり出されるような感覚に陥っている。
運転手と二人の会話さえ、頭に入ってこない。
(暑い……。)
背もたれに凭れたまま呻く。
それでも、汗は出ない。異常なほどのおかしな暑さが、倫之助を蝕む。
――そして、再び倫之助は意識を失った。