9
「幸福……幸福か……」
その単語を飲み込むようにそっと頷く。
まるで、その意志さえないように。
「風彼此使いは、幸福になればなるほど不幸になる」
「坊ちゃん……」
「俺は風彼此を持った時からそう思ってるけどね」
ベッドの軋む音に怯えるように、半蔵は身を縮こませた。
「風彼此使いだって――幸福を感じてもいいんじゃないですか」
「別に、俺が考えているだけで、おまえがそう思うなら思えばいいさ」
「違います。あなたが幸せにならなければ、意味がないんです」
ここまで倫之助に食い下がったのは、初めてだろう。
いつも彼を肯定してきた。この人こそが正しいのだと疑うことはなかった。
だが、今――あんな夢を見たからだろうか、心がひどく落ち着かない。落ち着かなくて、未だ動揺している。
「……半蔵。変だぞ、今日の――」
「おかしくなんかありません」
動揺しているからか、それとも――これが本当の「自分の本音」なのだろうか。
分からない。
心の中が、あの黒い霧のように渦巻いて、とぐろを巻いて、荒々しく嵐のように吹きすさぶ。
ぐっと手のひらを握りしめた。
「俺は坊ちゃんの味方です。何があろうと、何が起ころうと。誰が敵であろうと――あなたの父上が敵になろうと、俺はあなたの味方です」
「父さんが敵になるとは、怖いね」
「それ程、俺の決意は固いんです」
「……半蔵。どうしてそんなに俺に構うんだ。いつも思っていることだけど。おまえだって、おまえの好きなように生きる価値がある筈だ」
価値。
自分の価値など、どうでもいい。否――最初から価値などないのかもしれない。
服部家に生まれただけで、名を継がねばならなかった自分には。そこに何の疑問を持たなかった自分には――。
「坊ちゃん。あなたこそが俺の価値です。あなた以外に価値などありません」
「妄信しすぎるのもどうかと思うけど。それに、俺にはおまえにそこまで思われるほど、立派な人間じゃないし」
確かに、世間の目からいうと倫之助は「立派な人間」ではないかもしれない。
妄信しすぎているという点も否めない。
それでも半蔵は自分の心も、命も、生きてきた道も、生きていく道もすべて、倫之助に捧げた。
「馬鹿だな。おまえも」
「そうかもしれませんね」
呆れたように肩をすくませて、倫之助は幾度目かのため息を吐き出した。
「半蔵」
「はい?」
「もし、俺が本物の化物になったら、おまえが殺してくれよ」
ばけもの。
夢のなかの言葉が脳内で響く。
彼は――倫之助は、意味のないことなど言わない。
びく、と体が震える。
「それは……どういう……」
「そのままの意味だよ」
それ以上、彼のくちびるから紡がれる事はなかった。
ただ黄金色の瞳が、半蔵を捉えていた。
そして、その視線はもう何も言わないと決意している色をしている。
半蔵はそれ以上問い詰めることをやめ、湯呑を簡易キッチンで洗おうとした。
「いいよ、半蔵。俺が洗っとくから」
「……申し訳ありません」
疲れていた。
自身の心に押しつぶされそうだった。疲弊した心では、湯呑を洗うことすら億劫だったので、倫之助の言葉がありがたかった。
もう、夢は見なかった。
ただ――心が疲れて、ぐずぐずに溶けてしまいそうになるのをこらえるのに必死だったことを覚えている。
「おはよう、倫之助」
「おはようございます」
扉を開けると、まるで待ち構えたように造龍寺が立っていた。
時間を見ても、まだ朝食をとった直後だ。何か急ぎの用でもあったのだろうか。
「何か用ですか?」
「ああ。班長が呼んでいる」
「班長が……? 分かりました」
ぼうっとした頭のまま、頷く。
造龍寺の表情は暗い事がすこし気になったが、エスカレーターに乗って10階に上がった。
「造龍寺さんも呼ばれたんですか」
「いや……。そう言うわけではないんだが。いいじゃねぇか、相棒」
わざとらしく呟く造龍寺を一瞥して、班長がいる部屋をノックする。
すぐにういの返事が聞こえてきた。
「失礼します」
「いらっしゃい。倫之助くん――」
造龍寺は招かれざる客だったのか、ういはかすかに目を見開いた。
ふわっと緩いカーヴを描く髪の毛を掻き上げて、ため息をつく。
「造龍寺くんは呼んでいないのだけれど」
「一応、こいつの相棒なんで」
「……まあ、いいわ。で、本題なのだけど、倫之助くん。あなたの血を分けていただけないかしら」
「――は?」
彼女は、真顔で手を差し出し「ちょうだい」という仕草をした。
造龍寺を見やると表情を強張らせている。
「一応聞きますけど……何に使うんです」
「そうねえ……。私の研究に、とだけ伝えておきましょうか」
「研究ですか。まあ、いいですけど……」
「ちょっと待ってください班長。具体的に仰っていただけないと、俺が困ります」
「あら、どうして?」
ういは、本当に――心の底から不思議がっている様子だ。
おそらく、彼女は骨の髄まで研究者体質なのだろう。
そして蝶班の班長になった。研究成果が上部に認められたからだろうか。
だが、研究者というだけでは班長にまでなれない。
倫之助は見たことがないが、風彼此の使い手としても申し分ない筈だ。
「これは、陰鬼がどこからきたのか、そして何故出現し続けるのか、それを知るために重要な手掛かりになる筈よ」
「それはそれは……。随分俺を評価しているんですね」
そう呟く倫之助は無表情で、何の感慨も覚えていないようだった。
「ええ、それはもう。だってあなた、人間っていうより……」
「坊ちゃん!!」
扉がひどい音をたてて開いた。
殺気だった半蔵が飛び込むように走ってきたのだ。
「あら。また招いてもいないひとまで。まあいいわ。研究は焦ってはいけない。時間はあるんだから……」