8
手のひらの温度が、湿ってゆく。
細かい呼吸の音。
喉が潰れる音。
骨が砕ける音。
半蔵は、それを聞いた。
誰の命よりも優先される命。
自分の命よりも優先される命。
その「ばけもの」が、半蔵の手によって消されようとしていた。
黄金色の瞳が半蔵を見つめている。その瞳は光が消えていて、まるですり硝子のようにくすんでいた。
「ああ……坊ちゃん……」
かすかな声が恍惚に歪んでいる。
半蔵の白い指。
砕けた骨のせいで、ぐにゃりと曲がっている首がそうっと、静かに離れた。
半分に開いたくちびるが、徐々に青ざめてゆく。
死んでいる――。
「うわあああっ!!」
自分の悲鳴で、ベッドから思い切り起き上がった。
そのおかげで、背筋がつるような痛みを覚える。
肩で息をして、震える自分の手を見下ろした。そこには「夢」とは見紛うほどの、生々しいあたたかさがある。
「ぅう……」
今、半蔵はひどく混乱していた。
本当に夢なのか?
現実だったら――。
あれが本物の「沢瀉倫之助」だったら――。
自らの命を投げ打ってでも守りたかった命が己の手で、消えた。
それがどれほどの恐怖か、半蔵は今初めて知った。
哀しいというより、嫌だというより、自らを責めることより――何より、恐怖した。
「何故だ……。どうして、俺が……坊ちゃんを……俺は……おれ、は……」
今にも悲鳴を上げそうになり――がくがくと体が震えている。
自ら喉を締めなければ悲鳴を上げそうになるほどだった。
倫之助たちが「天女」を倒してから、一日がたった。
半日目を覚まさなかった彼は、今日の昼に目を開けた。
あの黒い霧が彼の背中に吸収される様を見たのは、今回で2回目だった。
初めて見たのは、5年前。まだ倫之助が小学校6年生の頃だ。
大型の陰鬼を、半蔵と二人で相手にしていた時。
半蔵が傷つき、気を失い倫之助が一人になった直後、気づいた頃には黒い霧が周りに充満し、とぐろを巻くように倫之助の体に吸収されていった。
その時の恐怖は、今も忘れられない。
あの霧。
あれが倫之助の体に今も「生きている」のだとしたら、いつか――彼が壊れてしまいそうな気がして、恐ろしいのだ。
それが、昨日も起こった。
いつもいつも、肝心な時に倫之助の傍にいられないことが、何より悔しく、恐ろしい。
ふいに、扉を軽くたたく音が聞こえた。
はっと顔をあげて、未だショックが抜けない頭で扉を開けた。
突然の訪問者は――倫之助だった。
「ぼ――坊ちゃん……。こんな夜遅くにどうしたんですか」
その声は、どこか惑っているような色をしている。
倫之助は部屋着のまま、戸惑う半蔵を見上げた。
「どうした、というのはこっちの台詞だけどね……。あんな大声出されたら、誰でも起きるよ」
寝ぐせで髪の毛があちこち跳ねている倫之助は、眠そうに欠伸をかみ殺している。
「も、申し訳ありません……。起こしてしまいまして」
「いいよ、別に。夢見でも悪かったんだろ?」
「……ええ、まあ……」
まさか自分が倫之助を殺した夢を見たとは言えず、ただ口を閉じてしまう。
その様子をぼうっと見据えていた倫之助が、ふいにため息をついた。
「大丈夫か」
「はい。坊ちゃん」
倫之助の部屋に半蔵を招き、ほうじ茶を淹れた。湯呑は一つしかなかったため、半蔵が一人で飲んでいる。
最初は恐縮して手を付けようとしなかったが、根負けしたのは珍しく半蔵自身だった。
「申し訳ありません。俺ばかり……」
「だからそれはいいって」
半蔵がベッドに、倫之助が椅子に座っている。
呆れたように彼はかぶりを振った。ほうじ茶は元から用意されていたもので、倫之助が買ってきたわけではない。だから、そんなに恐縮される覚えはない。
そして、彼は何も聞かなかった。
どうしてあんなに魘されていたのかも。
それはおそらく、興味がないわけではない。感じ取ったのだろう。半蔵の、暗い夢の底を。
夢の内容は知らないだろうけれど。
「半蔵」
「は、はい」
ぎくりと背中をこわばらせる半蔵に、倫之助は眉を寄せた。
「別に、夢のことなんて聞かないよ。夢は忘れるに限るって、おまえが言ったんだろ?」
半蔵は自身の手のひらを無意識に見下ろす。
あの生々しさは、まだここに渦巻いている気がした。
「坊ちゃん……」
「うん?」
「あの、お体は本当に大丈夫なんですか? あの黒い霧……5年前にも」
「大丈夫だって言ってるだろ。それに5年前なんて、殆ど覚えていないし。俺だって、どうなっているのかよく分からないけど。まあ、こうして目覚めたんだからいいんじゃないのか」
「……でも俺は、心配なんです。あなたのお命が……」
「命が心配っていったって、風彼此使いは80パーセントの確率で布団の上で死ねない。おまえも分かっていると思ったんだけどな」
ふう、と再びため息をつき、椅子から立ち上がる。
それから――半蔵の隣に座った。
彼の体に緊張が走ったように、びくりと揺れたのを感じる。
「それでも、俺は……」
「おまえは、甘くないはずだ。半蔵」
「それでも! 俺は、俺の命が枯れるまであなたを守りたいんです! いえ、俺なんかより、あなたの方がはるかに強いことは知っています。――それでも……あなたがせめて……せめて、幸福だと感じてくださるまでは……」
何を言っているのか、半蔵自身も分からなかった。
ただ胸が痛むのを感じる。
自分の心を自身で踏みにじるような、自虐的な言葉だった。




