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ずり、ずり、という音がする。
造龍寺が上を見ると、それは黒い霧に変化していた。
竜巻のように渦巻いていたそれが、ゆっくりと、霧へ。
そのどす黒い霧が、すうっと消えていくように見えた――が、それは造龍寺の見当違いだった。
霧は倫之助の体へ――背中へと吸い寄せられるように蠢く。造龍寺が目を見開いた瞬間、すでにその霧は倫之助の背中へ吸収された後であった。
「坊ちゃん!!」
そこにいる筈のない、男の声が聞こえる。
直後、地響きが聞こえた。あの二人が天女を倒したのだろう。
「くそ……っ、もっと早く気づけば……」
小刻みに呼吸をしている倫之助に跪いて、彼の様子を窺うように顔を寄せた。
「おまえの所は、大丈夫だったか」
顔を寄せた瞬間、黄金色の目と半蔵の目が合う。
それだけで、倫之助は「あちら側」には被害がなかったことに安堵したようだ。
「ああもう。自分のことには本当に疎いんだから、坊ちゃんは」
「処理班通ります!」
どういうことだ、と造龍寺が問う前に処理班が通り過ぎた。
皆森であろう声が大げさに聞こえる。
「早く坊ちゃんを休ませないと……。立てますか、坊ちゃん」
「ああ、うん」
半蔵が肩を貸すと、よろよろと立ち上がった。造龍寺が後ろを振り向くと、そこにはトラックが停まっていた。
運転席には、鵠が乗っている。水雪を送り届けた後、すぐに戻ってきたのだろう。
助手席の後ろに倫之助を乗せ、トラックはすぐに動き出した。
遠くで、半蔵の声が聞こえる――。
赤い髪の女が、洞窟の岩の上に座っていた。
相変わらず赤い振袖を着ている。
倫之助は、その夢がいつもと違うことに気づいた。
「自分がいる。」
洞窟の中に、今、自分自身がいるのだ。
今までの「夢」は、そこに自分がいなかった。言うなれば――精神体のみの存在だった筈。
それが今では手も足も、無論眼鏡もある。
「キミは、この世界に意味を見出すことに躍起になっているみたいだけど――」
女の声はまるで今、自分が本当の洞窟の中にいるように、反射して響く。
「言ったよね。この世界には意味なんてない。生きている意味も、死んでいく意味も、何の意味もない」
「そんな筈はない。意味がなければ、この世界は成立しない。成り立たない」
「世界は成立する。ヒトはみな、意味などなくても成立する。何故なら、この世の人間は意味など探さない。探さなくとも生きていけるからだ。キミは、なぜそんなに意味を探す? 空虚な心を埋めるためか? だったらそれは――随分とお粗末な生だな?」
くっくっと喉で笑う女は、おそらく倫之助をからかっているのだろう。
同じ顔で真逆の事を言うのは、どこか彼にとっておかしかった。
「キミの心は空虚だ。何もない。意味もないことを意味なく探す姿……。哀れだな。倫之助――」
「そうかもしれない。だけどもう、そんなことはどうだっていいさ」
「面白くないことを言うね。キミは。もうちょっと動揺したりしてもいいんじゃない? 本当、面白くない」
女は笑っていた顔をまるで能面のようになる。
まっさらな表情をした彼女は、ゆらり、と立ち上がった。
緋色の袖がゆれる。
まるで、炎のように。
「まあ、いいよ。その空虚な心で何を探すのか――。楽しみにしているよ、倫之助」
倫之助が瞬きをした間に、女はすぐ目の前に立っていた。そして、人差し指で――とん、と額を押す。
その衝撃でどこかに「落ちた」ような感覚を覚えた。
まるで、宇宙の中に放り出されたような感覚が数秒続き――そして次に目が覚めた時には、白い天井が見えた。
「坊ちゃん!」
目の前に、半蔵の顔が映し出される。
倫之助は何回か瞬きをして、ゆっくりとベッドから起き上がった。
「……ああ、よかった。目が覚めてくださって!」
「あのまま死ぬわけないだろ……」
ふう、と息を吐いた後、後頭部を掻いて――半蔵を見上げる。
この男は本当に心配していたのだ、と分かるほどわかりやすい表情をしていた。
「死ぬなんて、軽々しく言わないでください」
倫之助の手を握りしめて――視線を合わせ、眉を寄せている。
白いカーテンが目に痛い。
半蔵の髪の毛が風に乗って、ゆらりと揺れた。まるであの女の振袖の袖のように。
「あなたという命は、ひとつしかないんですから。あなたは、生きるんです」
「……生きる、か……」
倫之助の黄金色の目がふっと陰る。
生きるということが意味を見つけることと考えている倫之助は、赤い髪の女が言ったことを思い返せずにはいられない。
「何もない俺に、生きろというんだな。おまえは」
「何もないなんて、そんな事ありません。坊ちゃんには、俺がいます。誰もがあなたの敵になったとしても、俺はあなたの味方です」
「――ふ」
その言葉――真摯で、愚直なまでな言葉に、倫之助は呼吸だけで笑った。
「そういう事は、おまえが惚れた相手に言えよ」
「だから、俺はあなたにお嫁様ができたら――考えます」
針で心臓を突かれたような、微かな痛みを覚えたのは半蔵だった。
ベッドサイドのチェストに置いてあった眼鏡をとって、かける。
「おまえはおまえ、俺は俺。別に俺に合わせなくてもいいんだよ。おまえと俺は違う人間なんだから」
その口調は、何かをあきらめたようで、何かを楽しんでいるようなものだった。
その証拠に肩を震わせて、口許に手を当てている。
「坊ちゃん……」
悲しげな声に倫之助は再び、ふっと微笑んだ。




