8
糸巻ういは、眠っている倫之助を見下ろした。
青白い顔だが、疲労のせいだろう。血圧も正常値に戻りつつある。
「そうだったの」
「まあ、大蛇退治は成功ですよ。一応ね」
「何よ。歯切れが悪いわね」
部屋の扉のあたりに立っていた造龍寺は、曖昧に笑って見せた。
半蔵はここにはいない。
すこし調べたいことがあるらしく、図書室へ向かってしまった。
珍しいこともあるものだと思う。
てっきり倫之助の傍について離れないと思っていたのだが。
「とどめを刺したのは俺ですが、そのきっかけを作ったのは彼です。いや、倫之助
がいなければ俺は死んでいたかもしれない」
「あら。ずいぶん謙遜するのね。蝶班に入ったとはいえ、まだこの子は新参者よ?」
「だから、半蔵が調べているんですよ。倫之助には何かがある。まあ、彼にも分かっていないようですが」
半蔵から聞いた話だ。
倫之助は、沢瀉の家の人間ではないという事を。
どこから来たのかも、名前さえも分からなかったという事を。
沢瀉倫之助という名前は後付されたものだと知った。
「危険視しますか?倫之助を」
ういに問うと、彼女は「どうでしょうね」と笑う。
実際、度が過ぎる薬は毒になる。力がありすぎるものは危険だ。
しかし、現実は風彼此使いが足りないのも事実で、これほどの力を持つ倫之助を手放すことはできないのだろう。それから彼女はかぶりを振った。
「倫之助くんはまだまだこれから伸びるわ。伸びようとする芽をわざわざ摘んでしまう事もないでしょう」
窓から入ってくる風が腰までの長い髪をなびかせ、彼女は病室から出て行く。
――これからまだ伸びる。
ういの言葉に苦笑いをし、もうじき目覚めるであろう倫之助の顔を見下ろした。
――ずっと、ここにいたいと思わない?
赤い髪の女が云った。
長い髪の毛は腰まであり、その炎のような赤に負けない程濃い緋色の振袖を着て、優雅に座っていた。
そこは人間が住む場所ではない――あえて言うなら、洞窟のような場所だった。
ぼこぼことした岩がむき出しになっている。
だがその奥には小さな赤い鳥居があり、その前に彼女は座っていた。
ここは心が落ち着く場所だ。
何故か、そう思う。
まるで最初からここにいたかのように。
否――自分が本当はどこの生まれなのかも、何という名前だったのかも分からないのに、そう思うのはおかしい。
見知らぬ場所に安堵感を覚えることも。
なぜなら、覚えていないからだ。
憶えていないことに安堵感を覚えるのは間違っている。
「キミは必ず、ここにやってくる」
ぞっとする言葉を吐き出して名も知らぬ彼女は嗤った。
はっと目を開くと、見知らぬ白い天井が見えた。
重たい体を無理やり起こして、あたりを見渡すが誰もいない。
窓の外はすでに暗く、月明かりだけが白いシーツを照らしていた。
――今は何時だろうか。
ぼんやりと考えると、ぐうと腹の虫が鳴った。
「うーん……」
大きくベッドの上で伸びをすると、床に置いてあったスリッパを履いて、のろのろと起き上る。
とにかく腹が減った。風彼此を使った後は腹が減るのは生理現象なのだから仕方がない。
ドアを引いて、廊下に出ると、その明るさに思わず目を細める。
「……眼鏡」
どうも視界がぼんやりとしていると思ったら、眼鏡がなかった。
寝ぼけていたのだろうと思い、病室に戻っても赤い縁の眼鏡はなかった。
おろおろと周りを探しても、チェストにもどこにもない。
倫之助の目は悪い。
眼鏡がなくては何も見えないのだから、眼鏡は必需品になっているが――なくては本当に困る。
見えなくてはどうしようもない。
もしかしてあの時、壊れてしまったのだろうか。そうだとしたら、半蔵か誰かについてきてもらって、買いに行かなくてはならない。
見えない目で一人街に出るなんて、恐ろしくてできやしない。
仕方がないから、ベッドの上でじっとしていることにする。
「……」
それにしてもいつも夢に出てくる女は誰なのだろうか。
自分とおなじ顔をして、すこしだけ自分より高い声をしている女は。
決して、倫之助と関係のない女ではないだろう。
分からないからこそ心地が悪い。
ベッドの上でぼんやりとしていると、足音が聞こえてきた。
草履の音だ。たぶん、半蔵だろう。
とんとんと音がする。
倫之助が返事をしたあと、半蔵が顔を出した。
ひどく安堵した表情でせっかくの男前が台無しに崩れている。
「よかった、坊ちゃん。目を覚まされて」
「ああ、うん。それより、眼鏡をしらないかな。どこにもなくて」
「眼鏡ならここだよ」
開いていたドアから入ってきたのは、ぼんやりとした影だった。
ここからでは女か男か分からないし、声も中性的でどちらか分からない。
その影はまっすぐにこちらへ向かってきて、倫之助の目の前にずいっと眼鏡を突きつけた。
「あ、眼鏡……。ありがとうございます」
なぜその人が持っているのか分からずに、それを苦労して受け取ると、ようやく視界が開ける。
「きみが沢瀉倫之助?」
最初男かと思ったが、よく見るとショートカットの女だった。
ひどくサバサバとしている声だ。半蔵を見ると、すこしだけ苦々しい顔をしている。
「私は造龍寺。造龍寺鈴衛。兄が世話になっているようで」
「造龍寺さんの、妹さん?」
「そう。まぎらわしいから、鈴衛でいいよ。兄の車の中にあったよ、その眼鏡」
「それはどうも……」
ぺこりと頭を軽く下げると、鈴衛は、にやっと笑った。